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Tuesday, October 24, 2017

総選挙の後に:2017年長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼早朝集会メッセージ A message for Korean victims of the Nagasaki Atomic Bomb, August 9, 2017

日本の植民地支配、侵略戦争、朝鮮人被爆への責任に真摯に向き合うための歴史を展示する「岡まさはる記念長崎平和資料館」理事長の高實康稔氏は今年の4月、亡くなられました。高實さんは毎年8月9日、長崎原爆の朝鮮人被爆者を追悼するための早朝集会でメッセージを読んでいましたが、今年は、「長崎在日朝鮮人の人権を守る会」の柴田利明さんがメッセージを読みました。ここに紹介します。日本は、安倍首相が初めて改憲を公約に掲げたとする総選挙で自公連立政権が3分の2の議席を再び確保しました。日本の侵略戦争の歴史を否定する動きも止まる気配がありません。「北朝鮮」の脅威を煽り憎しみと戦争への欲望を駆り立てる政府やメディアの風潮も収まる気配がありません。この12月は、南京大虐殺の80周年を迎える年でもあります。総選挙の暗澹たる結果を受けて、いまここに歴史を心に刻み隣国の人々との友情を築き、再び戦争をさせないための役割を果たしていくことを誓いたいと思います。どんなに少数派となっても、自分の子どもに恥じない生き方をしたい。 @PeacePhilosophy 乗松聡子

2017年長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼早朝集会メッセージ
早朝集会メッセージを読み上げる柴田利明さん

 岡正治先生が長崎原爆朝鮮人犠牲者を追悼する碑を建立されたのは1979年8月9日でした。その時以来、長崎在日朝鮮人の人権を守る会は、朝鮮人犠牲者を追悼する早朝集会を開催して参りました。そして、1994年に岡先生が急逝されたあと、私たちは高實康稔先生と共に追悼碑とこの早朝集会を引き継いで参りましたが、非情にも高實先生は既にここにはおられません。

 まず、追悼碑が周囲の碑に比べ特に小さく、平和公園の片隅に建てた理由について、皆さまに申し上げます。

 朝鮮人民は日本帝国主義の朝鮮侵略と1910年の植民地化によって、祖国を奪われ、土地を奪われ、生活の糧まで奪われ、敵地である日本に渡ってこざるを得ませんでした。さらに日本帝国主義は中国侵略戦争、アジア・太平洋戦争へと戦場を拡大し、労働力不足、兵士不足が露わになると、朝鮮人への戦時強制動員、徴用、徴兵を進め、朝鮮民族全体を日本の帝国主義戦争に引きずり込みました。1945年当時、長崎市とその周辺には約3万人の朝鮮人が居住することになりました。長崎市では三菱財閥系、川南工業系の軍需工場と、それに付随する土木作業に朝鮮人労働者とその家族が動員されました。1945年8月9日、アメリカ軍の原爆投下によって長崎市が惨劇の街となったとき、約2万人の朝鮮人が被爆し、そのうち1万人が非業の死を遂げたのです。戦後さらに、日本政府は朝鮮人被爆者に対して差別抑圧の政策を続けました。政府及び長崎市は戦時強制動員ゆえの被爆である事実を認めようとせず、あまつさえ、長崎原爆死者数を1200人と実数から大幅に減じた数を公表しています。岡正治先生は、理不尽極まる朝鮮人被爆者の非業の死を前にして、日本帝国主義足下に生きる一日本人としての責任を自らに課し、市民からの募金を得て、贖罪の思いを込めて、この追悼碑を建立しました。

 一昨年より、韓国を始め世界各地から追悼碑を訪れる方が増加しております。その中に碑の場所と小ささを韓国・朝鮮人に対する差別ではないかという疑念が生じるのはやむを得ないことです。しかし、追悼碑は建立後に公園整備の関係で、数度移動と立て替えを行いましたが、その都度、岡先生と高實先生は、日本人としての贖罪の思いは目立たず密やかであるべきだとのお考えで、このような小規模な形となっております。

 昨今、日本政府に煽られた一部の人間による差別排外主義が高まっております。この小さな碑にも撤去を求める蠢動が出ております。それに対してきょうのように、世界各地から自主的に集まられた皆さんがこの小さな碑を囲み、朝鮮人原爆犠牲者の追悼のひとときを共有しているのは希有なことには違いありません。その上で、日本の過去の侵略と戦争に対する深く正確な歴史認識に基づいた名もなき市民一人一人の贖罪の意志こそが、一見孤立し小さく見えるようとも、歴史の逆流に対峙したとき堅い防波堤の連なりになるというのが岡、高實両先生のお考えであり、私たちも続いていきたいと思います。

 高實先生は、端島=軍艦島の世界文化遺産化問題にたいして、安倍内閣は近代日本の優越性を内外に誇示しようとする狙いがあり、さらに日本近代史が朝鮮侵略と戦争そして長崎原爆投下にまで行き着いた歴史は隠蔽しようとすることに本質があることを見抜き、端島に強制連行された朝鮮人・中国人の歴史の真実を明らかにすべく「軍艦島に耳を澄ませば」の編集に渾身の力を注ぎました。そして昨年秋に「軍艦島に耳を澄ませば」の韓国語訳出版の提案があり、意義深いことだと感激し、病床にありながら韓国での出版を心待ちにされました。韓国語版「軍艦島に耳を澄ませば」が、映画「軍艦島」の柳昇完(リュ・スンワン)監督からの推薦も受け、二人の翻訳者によって7月31日に出版されたことをご報告いたします。

 アメリカ軍が長崎に投下した原子爆弾は防御不可能な無差別大量殺戮兵器でした。核兵器廃絶は世界人類にとって絶対的課題であるべきことは何者も否定できません。2017年7月7日、国連本部で「核兵器禁止条約」が採択されましたが、日本政府は核兵器保有国とともに条約参加を拒否しました。広島・長崎の被爆者から安倍首相への非難が一層強まったのは当然のことです。

 日本政府は唯一の被爆国という仮象を国際外交で謳ってきました。一方で韓国人被爆者にたいして厚生労働省の指導を通して手帳の交付申請を却下する姿勢を強めています。韓国・朝鮮人被爆者の存在を否定する排外主義の強まりを懸念せざるを得ません。「原爆と朝鮮人」第7集に三菱長崎造船所に動員され被爆した韓国人の証言を掲載しました。その証言も添えて被爆者手帳交付申請をしましたが却下されました。結局韓国人被爆者は裁判を起こしましたが、長崎市は却下理由の資料として1981年6月に作成した「朝鮮人被爆者一覧表」に原告の名前がないという荒唐無稽な弁論をしてきました。この「朝鮮人被爆者一覧表」という文書は長崎市(本島市長当時)が朝鮮人被爆死者数を1200人以下に留めたいという思惑のために捏造した文書であり、高實先生が壊滅的批判を加えてきたものでした。長崎市は韓国・朝鮮人被爆者に対して、恥ずべき民族差別の罪悪を重ねています。

 朝鮮学校に対する高校無償化をめぐって、7月19日広島地裁は無償化からの適用除外を認めました。ところが7月28日大阪地裁では除外処分を取り消し、無償化の適用を命じる全く相反する判決が出されました。高校無償化の法の趣旨に即せば広島地裁の判決は不当であるばかりではなく、地裁の訴訟指揮自体が偏見と民族差別に満ちていたことが指摘されています。政府は大阪地裁判決に従い、朝鮮学校に対する無償化を果たさなければなりません。

 安倍政権の発足から韓国・朝鮮人への差別排外行政が強まったのは確かです。ヘイトスピーチなどの民間における民族差別思想、排外行為の横行も安倍政権が勢いづかせたのは間違いないことです。民族差別、排外主義を安倍政権と共に終わらせなければなりません。

 最後になりましたが、早朝にもかかわらず、多数ご参集くださいましたことに厚く御礼を申上げます。

2017年8月9日

長崎在日朝鮮人の人権を守る会 柴田利明



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Wednesday, October 11, 2017

日系カナダ人作家ジョイ・コガワ氏によるオンタリオ州「南京大虐殺を記念する日制定法案」への支持表明 Japanese Canadian author Joy Kogawa supports Ontario's Bill 79, Nanjing Massacre Commemorative Day Act

Joy Kogawa
(2009年5月15日、トロント大学での
憲法9条についてのイベントで講演)
See below for Japanese translation of Joy Kogawa's statement to support Bill 79. The original English version appeared in the Toronto Star on September 15. Please leave a comment in the comment section below to express your support to Joy and Bill 79.

幼いとき戦時日系カナダ人収容を体験し、戦後そのときの体験をもとに書いた小説 Obasan (日本語訳は『失われた祖国』として二見書房から1983年、中公文庫から1998年に出ている)でカナダの代表的作家の一人となったジョイ・コガワ氏。先日からこのブログで、オンタリオ州議会で審議されてきた「南京大虐殺を記念する日」を設ける法案(Bill79)について情報を提供してきているが、さる9月15日、コガワ氏は地元紙『トロント・スター』に、この法案への支持を表明する記事を発表した。

Why I Support the Nanjing Massacre Commemorative Day Act: Joy Kogawa
https://www.thestar.com/opinion/commentary/2017/09/15/why-i-support-the-nanjing-massacre-commemorative-day-act-joy-kogawa.html

ここに日本語訳を紹介する。(注:訳はアップ後微修正することがあります)。

★コガワ氏に賛同する人はこの投稿のコメント欄に賛同コメントをしてください。


なぜ私が南京大虐殺を記念する日法案」を支持するか

-大規模な歴史上の暴力は、その歴史が繰り返されない為に、
周知され研究されるべきである-

2017年9月15日
ジョイ・コガワ

私は、カナダで生まれた日系人として、カナダと日本の両国を愛している。しかし、第二次世界大戦中の幼年期、収容所のあったブリティッシュ・コロンビア州・スローカン市で、土曜日の夜にオッドフェローホールで上映されていたニュース映画を通じて、日本の残虐行為について知ることとなった。日本の数々の素晴らしい側面に対しての誇りを持ちながらも、今日でも私は、日本の軍隊の歴史の重みを感じ、それによって未だ苦しみ続けているアジア全域の被害者とその家族が求めているものに対しても重い気持ちを抱いている。私は、深い傷を負い続けている人々が癒され、その歴史の恥を代々受け継いでいる人々の心の安らぎを願ってやまない。私たちはお互いが傷つけられやすい状況にあることを認めることで、私たちを隔てる原因となる恐怖や憎しみを乗り越えることができると信じている。

Gently to Nagasaki(仮訳:『長崎に優しく』)という著書を執筆しながら、1937年の南京大虐殺について学ぶこととなり、言葉を失うような資料画像を見て身動きが取れない様な感覚に陥った。大日本帝国軍は、数週間の間に、南京を占領し、数え切れない数の捕虜と市民を殺害したのだ。[1]今、サーベルや銃剣の世界を超えた時代において当時と同じような戦争への欲望に我々が直面するにあたり、過去の戦争の悲惨さを明確に記録していくことが重要だ。[2]

ここに、私がアジア系カナダ人と共にBill79“南京大虐殺を記念する日法案”を支持する10の理由を記す。

1)      大規模な歴史上の暴力は、その歴史が繰り返されない為に、周知され研究されるべきである。欧州のホロコーストについては、その歴史は教えられ、人々の心に刻まれているが、アジアの歴史上の大規模な残虐行為についてはそうではない。

2)      現在、排外主義・虚偽報道・歴史修正主義が横行し、ホロコーストの被害者でさえ再び平気で侮辱されてしまう時すらある時代において、Bill 79法案を通過させるような動きは、私達の人間性は、自らが蛮行を犯してしまう能力を有することを認められるかどうかにかかっている、という新たな喫緊の課題を提示する。

3)      私は日系カナダ人として、日系カナダ人に対する補償を求めた長期に渡る闘いに連帯してきてくれたアジア系カナダ人コミュニティを支持する。私達日系カナダ人が支援することによって、アジア系カナダ人コミュニティと今後も良き関係を築いていく礎となる。逆に私たちが支援しなかったりや反対したりすることは、コミュニティ内での分裂と、日系カナダ人に対する敵対心につながる裏切り行為となるだろう。

4)      オンタリオは、多種多様な文化的背景の人々が暮らしていることで知られている。この国はお互い礼をもって接するような姿勢で高い評価を得てきているが、その模範と言えよう。Bill79を通過させることは、混乱の中で希望を渇望している世界に、更なる進化と歩むべき方向性を示すことになる。
                                                                                               
5)      真実の認識なくして、和解はあり得ない。Bill79は、南京の歴史的真実を認める努力を通じて、和解への道に繋がるだろう。この一歩を踏み出すことで、オンタリオは、歴史を修正したり、曖昧にしたり、否定したりする人達とではなく、世界の歴史学者達と共に歩むことができる。

6)      実際に苦しみの中にいる人達の立場に立って、その人たちの口から真実を聞くことが、彼らの苦しみを軽減していく助けとなる。それらを否定し、過小評価しようとすれば、苦しみはさらに長引き、過去の過ちに対して更なる過ちを加えることになる。

7)      Bill79は、かつて罪なき日系カナダ人が日本の罪を代わりに背負わされ、苦しんできた強制収容の歴史を広く認知させることに繋がる。これは現在もこのようにスケープゴートにされている人たちがいるということを社会に知らしめる教育的手段となることであろう。

8)      Bill79の通過は、歴史の真実に向き合う日本の勇気ある教育者に対する激励のメッセージになる。日本の若者たちは、外国で初めて真実を知り衝撃を受ける、というのではなく、母国で自分たちの国の歴史を学ぶ機会があっていいはずだ。

9)      第二次世界大戦から40年が過ぎた1988年9月22日に、カナダ政府が議会の全面的な承認の下、罪なき日系カナダ人に対する加害を認めたことは、真実と和解の勝利であった。アジアの国際的緊張感が高まっている昨今、Bill79の通過は、連帯行動になると共に、アジアの真実・和解・平和・繁栄への希望を与えるものになる。

10)日系カナダ人として、日本が、世界の道義的なリーダーシップを示す国々と並び称されるようになることを願っている。Bill79の通過が、その様な方向へ拍車をかけていくことが私の願いである。



[1] 原文には soldiers とありそのまま訳すと「兵士」であるが、正確に言うと大量虐殺されたのは捕虜であり、筆者に確認した上で「捕虜」と訳した。

Monday, October 09, 2017

琉球新報連載『正義への責任』完結(総括文)"Responsibility For Justice: From the World to Okinawa" Series Concludes

『琉球新報』で2014年10月から3年間連載した『正義への責任 世界から沖縄へ』、10月7日に38回目(11面掲載)をもって終了しました。この最終回の「総括文」を琉球新報社の許可を得て転載します。The international article series Responsibility for Justice: From the World to Okinawa, which lasted for three years since October 2014, concluded with the wrap-up essay by Satoko Oka Norimatsu, reprinted with Ryukyu Shimpo's permission. Below the article is the complete list of thirty four authors.

琉球新報社提供
ここにもう一度筆者全員を紹介します。Here are authors of the series.

1. Satoko Oka Norimatsu 乗松聡子(のりまつ・さとこ)
2. Peter Kuznick ピーター・カズニック
3. Steve Rabson スティーブ・ラブソン
4. Gavan McCormack ガバン・マコーマック
5. Alexis Dudden アレクシス・ダデン
6. Katherine Muzik キャサリン・ミュージック
7. Joseph Gerson ジョセフ・ガーソン
8. Paul Jobin ポール・ジョバン
9. Mark Ealey マーク・イーリー
10. Herbert P. Bix ハーバート・B・ビックス
11. Christine Ahn クリスティーン・アン
12. Catherine Lutz キャサリン・ルッツ
(以上1-12回は『正義への責任 ①』として小冊子発売中。Above 12 articles have been published as Seigi e no sekinin booklet No.1.)

13. Lawrence Repeta ローレンス・レペタ
14. Jean Downey ジーン・ダウニー
15. John Feffer ジョン・フェッファー
16. John Junkerman ジャン・ユンカーマン
17. David Vine デイビッド・バイン
18. Koohan Paik クーハン・パーク
19. Oliver Stone & Peter Kuznick オリバー・ストーン&ピーター・カズニック
20. Jon Letman ジョン・レットマン
21. Roger Pulvers ロジャー・パルバース
22. Choi Sung-Hee チェ・ソンヒ(崔誠希)
23. Sheila Johnson シーラ・ジョンソン
24. Kyle Kajihiro カイル・カジヒロ
25. Dave Webb デイブ・ウェブ
26. Bruce Gagnon ブルース・ギャグノン
27. Kwon Heok-Tae クォン・ヒョクテ (権赫泰)
(以上13-27回『正義への責任 ②』として小冊子発売中。Above 13-27 articles have been published as Seigi e no sekinin booklet No.2.)

28. George Feifer ジョージ・ファイファー
29. Richard Falk リチャード・フォーク
30. Ann Wright アン・ライト
31. Regis Tremblay レジス・トレンブレー
32. Marie Cruz Soto マリー・クルーズ・ソト
33. Tim Shorrock ティム・ショロック
34 - 37. John Dower ジョン・ダワー
38. Satoko Oka Norimatsu 乗松聡子(総括文 a concluding article)

近日、ブックレットの第③巻を刊行予定です。Booklet No. 3 containing above articles 28-38 will be published soon.

ありがとうございました。 Thanks so much,
乗松聡子 (監修・翻訳・執筆担当)
@PeacePhilosophy Satoko Oka Norimatsu (editor, translator, author of Responsibility for Justice series)

Saturday, October 07, 2017

ミャンマー:でっち上げられたロヒンギャ過激派 Myanmar: The Invention of Rohingya Extremists, Joseph Allchin

 ミャンマー・バングラデシュ国境のロヒンギャ難民問題が深刻化している。ミャンマーを追われてバングラデシュ側に流れ込む難民の数が急増しているのだ。
 約3000の仏塔が建ち並ぶバガン仏教遺跡で知られるミャンマーは、仏教徒が多数を占める国だ。その西辺にあるラカイン州(旧アラカン州)には、イスラム教を信仰する少数派のロヒンギャが暮らしている。
 ここに国境を接しているバングラデシュは、英領インドから東パキスタンを経て独立し、イスラム教徒が多数の国だ。ベンガル湾東部の港湾都市チッタゴンの周辺には、仏教を信仰する少数派が暮らしている。仏教発祥の地に近いのはバングラデシュの方で、世界遺産に指定されたパハルプールなどいくつかの仏教遺跡もある。
 陸続きで国境を接するこの地域では、歴史的に様々な民族や宗教が行き交ってきた。ミャンマーもまた、英領インドの一部だった。現在の国境線はイギリス植民地政策の名残という性格が強い。ここから独立した国々は、歴史、言語、文化、宗教を共有する単民族の国民国家を作ったはずだったが、この観念は最初から現実と一致していない。異なる宗教を持つ少数派がある程度の緊張関係を持ちながら共存しているという姿が、どの国にも見られる。
 ロヒンギャ問題が混迷を深める中、バングラデシュ側では仏教徒少数派に対する焼き討ちが発生している。ミャンマーでのロヒンギャ弾圧がバングラデシュのイスラム教徒の感情を煽れば、バングラデシュ側での少数民族問題を悪化させる可能性もある。
 ミャンマー軍政が同国内のイスラム少数派ロヒンギャを国際テロ組織や対テロ戦争と結び付けて迫害している理由の一つは、制裁措置を科していたアメリカ政府との関係改善をめぐる駆け引きだった。このような背景が日本で報じられることは少ない。

ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックスのブログ版に掲載されたジョセフ・オルチンの論説を翻訳して紹介する。

(前文・翻訳:酒井泰幸)

原文:http://www.nybooks.com/daily/2017/10/02/myanmar-the-invention-of-rohingya-extremists/

ミャンマー:でっち上げられたロヒンギャ過激派

ジョセフ・オルチン、2017年10月2日


チッタゴンの海岸で銃を手に入れるのは難しいことではない。少なくとも私はそう聞いた。バングラデシュ南部の漁村シャムラプールにある家の外、頭上を覆う樹々の木陰で、私はある男にインタビューした。彼の部下は傍らにじっと立って、彼に紙巻きタバコを差し出し、彼のお喋りに合わせ従順に笑っていた。私の知人が警察と闇の世界の両方に持っていた人脈は、この西部開拓時代のようなバングラデシュ辺境地帯では、世界を動かすのに欠かせないものだ。ここでは密輸が最も大きな収入と権力の源だ。彼はこの地域の新しい現象を反映していた。悲惨にも難民となったロヒンギャが、国境の向こうの祖国ミャンマーでの軍による迫害に異議を申し立てるため、武装抵抗運動を開始する可能性が出てきたのだ。

8月25日に、アラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA)という寄せ集めの集団が暗闇の中から現れ、主にこん棒と山刀で武装して、ミャンマー西部のラカイン州(旧アラカン州)で約30カ所の警察派出所を急襲し、12人ほどのミャンマー人警備員を殺害した。ミャンマー軍は圧倒的な武力と残虐行為で対抗し、民間人を無差別に殺害し性的暴行を加え、村々を焼き払ったと報じられた。それから数週間のうちに、軍は50万人以上のロヒンギャを国境の向こうのバングラデシュへと追い出したが、その口実は、バングラデシュから不法に移民してきて過激派やテロリストをかくまっていると軍が難癖を付けた人々に対し「掃討作戦」を行うというものだった。バングラデシュで彼らが合流したのは、この数年に繰り返されてきた大虐殺とアパルトヘイトのような状況を脱出した、さらに50万人ほどの人々だった。

ミャンマー政府は数多くの民族的反政府運動に直面してきた。たとえば、同国北部の中国に近い国境地帯では、カチン独立軍がはるかに良い装備で反政府運動を戦っている。しかしカチンの人々はキリスト教徒が多く、大規模な民族浄化作戦の対象になったり、信仰のせいでテロリストと非難されることはなかった。違っているのは、ロヒンギャの人々の多くがスンニ派イスラム教徒だということだ。ミャンマーの軍部指導者は長らく、ロヒンギャをアルカイダと繫がった危険なイスラム教徒過激派の第5列に見立てようとしてきた。

このイスラム教徒少数派を「過激派」や「テロリスト」として悪魔化することは、ミャンマーの仏教徒多数派の側にいる国家主義の政治家たちにとっては、役立つものだと分かった。だがこのようにロヒンギャを他者化することは、今や危険な二次的影響のリスクをはらんでいる。それは主に、イスラム聖戦士反政府運動の亡霊を政府が呼び出せば、それが現実化するかもしれないことだ。さらに、辛苦をなめ先鋭化した離散ロヒンギャが、銃剣で脅され国境を越えてバングラデシュに流れ込んだ。そこでは「ヒズブアッタハリール(イスラム解放党)」のようなイスラム過激組織が一般大衆の感情を煽って、ロヒンギャの大義を自分たちの政治目的のために使っている。

ロヒンギャをイスラム教徒テロリストの脅威として描写することには根深い背景がある。ミャンマーが民主制に移行する前の10年間、ミャンマーの情報関係者は「対テロ世界戦争」に好機を見出した。2002年10月10日、サダム・フセインがアルカイダと繋がりを持ち大量破壊兵器を保有しているという偽りの根拠に基づいて、米国上院がジョージ・W・ブッシュの不運なイラク戦争を承認したのと同じ日、米国国務省がヤンゴンに派遣した特使から受け取った電報は、ミャンマー政府から情報共有の希有な申し入れを伝えるものだった。当時ミャンマーには厳しい制裁措置が科されており、ミャンマー全体が国際社会から隔絶されていたので、この協力は極めて希な出来事だった。

ミャンマーが提供した情報によれば、ロヒンギャ連帯機構(RSO)とアラカン・ロヒンギャ民族機構(ARNO)という今は活動していない2つの団体が、アルカイダ工作員と面会し訓練を受けていたとされていた。この外電は、2つのロヒンギャ団体がタイ国境に本拠を置く他のビルマ民族反政府団体との関係を構築しようとしていたことも報告していた。米国大使館が確信していたのは、ミャンマー将官らの望みは「(対テロ)最前線で協力して功績を認められることで米国との関係を下支えする」ことにあり、アルカイダに援助を求める団体との関係を理由に他の民族的反政府団体の評判を傷つけようともしていることだった。民族的反政府団体の多くは軍に対して共に闘っていたので、民主化活動家と親密な関係にあった。歴史的にミャンマー国軍は、反対勢力や権利を剥奪された少数派を弱体化さるため、分割統治戦術を使ってきた。

だが、ロヒンギャ団体がミャンマー国内での作戦のためにアルカイダとの関係を構築できていたという証拠は全くない。オサマ・ビンラディンと面識があったと噂されるロヒンギャの一人、サリム・ウッラーという活動家は、こう私に語った。ミャンマーでイスラム教徒が銃を取ればテロリスト扱いだが、仏教徒がそうすれば自由を求める叫びを上げていることになる。ロヒンギャに対する偏見が、他の民族的武装団体を支持する多くの人々や仏教徒多数派の中に植え付けられた。多くの元民主化活動家でさえ、軍がロヒンギャ全体をテロリストと呼ぶことを認めた。

多数派とイスラム教徒少数派の間の緊張を、ミャンマーの超国家主義的な仏教僧が、さらにかき立てた。この敵意が国外のイスラム教徒からネット上の反応を誘発した。アルカイダ傘下の団体や他のイスラム聖戦士運動は現在、自分たちのイスラム教徒迫害の物語を広めるために、ロヒンギャの窮状を利用している。

最近まで、このような聖戦士プロパガンダのほとんどは、ミャンマーで多くのロヒンギャイスラム教徒が昔から暮らしてきたアラカン州の「解放」を非現実的な目標ととらえ、それは隣国バングラデシュを「征服」し、そこにカリフ政権を樹立したら考えることだと見ていた。だが今は、アルカイダのような団体がもっと直接的にロヒンギャの大義を支援しているようだ。9月半ばのアルカイダの声明は、「バングラデシュ、インド、パキスタン、フィリピンの全ての聖戦士兄弟たちに、ビルマ(ミャンマー)に向かって旅立ち、イスラム教徒の兄弟たちを助ける」ように呼びかけた。

ロヒンギャ反政府団体が外部のイスラム聖戦士団体と同盟を結んだという兆しはまだない。じっさい、ARSAは3月にアラビア語の名前を廃止して、より世俗的な響きを持った英語の名前への変更を決定したが、これはARSAが多国籍イスラム教徒過激派組織に取り込まれていないことを示すものだ。この団体のカリスマ的指導者アタ・ウッラーは、パキスタンとサウジアラビアの両方に人脈を持ち、アルカイダ指導者のアイマン・アッ=ザワヒリが匿われているとされるパキスタンの港湾都市カラチで育った。だがARSAには能力も武器もあまりないことから明らかなように、アタ・ウッラーがいくらラシュカレ=トイバやタリバンのような団体から支持を得ようと努力しても、現在のところ実を結んでいない。

しかし、掃討作戦や大量のロヒンギャ民間人が集団脱出したことへの怒りが大きく盛り上がったので、この状況は変化するかもしれない。すでに、エジプトの過激派がカイロのミャンマー大使館で爆弾を爆発させた。バングラデシュの対テロ責任者モニルル・イスラムは、私がシャムラプールで接触した男が語ったのと同じことを繰り返した。「銃は手に入る。ミャンマーやインドからバングラデシュに密輸されている。」AK-47の模造品はブラックマーケットで1000ドル少し出せば買うことができ、ピストルなら200〜300ドルだろうとモニルル・イスラムはいう。武器の出所を突き止める努力が、過激派団体を現地情報機関の監視の下に引き出すだろう。バングラデシュではこのような運動は注目を避けるため有力者の支援に頼ることが多い。

バングラデシュ人イスラム教徒は、この危機を信仰と不信仰の2つの力による預言された壮大な紛争として描き、ロヒンギャの窮状を積極的に利用しようとしてきた。ARSA自体はこの反乱にバングラデシュ大衆の支持を得ようともしてきた。じっさい、ロヒンギャ支援には幅広い合意が形成されたが、以前は自分勝手な侵入者として無視されていた。バングラデシュのシェイク・ハシナ首相が示した慈悲心は、大きな喝采を受けた。イスラム教徒が大義に飛びついた声の大きさを考えれば、彼女の動きは政治的に必要だったようにも見える。

ARSA司令官と噂される人物が最近このように主張した。ミャンマー軍が「我々を毎日拷問にかけていたので、他に選択肢はなかった。だから我々は(8月25に)行動を起こした…。こうなることを我々は分かっていた。」不可避の紛争と存在をかけた闘いというこのメッセージは、多くのロヒンギャの人々に共感を呼び起こした。私がバングラデシュ南部でインタビューした女性でさえ、できるなら戦うと、私に促されるでもなく言った。彼女たちの手には何も残されていないのだ。ARSAが宣言した1カ月の停戦は10月10に終わる。ARSAは低強度の攻撃を再開する可能性が高い。もしそうなれば、今もミャンマーに残るロヒンギャの村人たちは、軍からのもっとひどい実力行使を覚悟しなければならない。

ブッシュ政権の見当違いの対テロ戦争が世界中でイスラム急進思想を助長したように、ミャンマー将官たちがロヒンギャ反乱者と国際イスラム聖戦士団体とのほとんど空想上の関係を意図的に誇張したので、同様の望ましくない結果になるかもしれない。もともとミャンマー軍は他の反政府・民主化・民族団体との同盟を防ぐため、歴史的な恨みを刺激してロヒンギャ反乱者とは分断しようとしてきたが、この政策の結果として、ARSAであれ、もっと恐ろしい怒りの表現の形であれ、ロヒンギャの闘士たちを本当の過激派の手中に追いやるだろう。

(本文終わり)

筆者:ジョセフ・オルチンは『エコノミスト』と『フィナンシャル・タイムズ』などの出版物でベンガル湾地帯を取り上げてきたジャーナリスト。近刊書『Many Rivers, One Sea: Bangladesh and the Challenge of Islamist Militancy(多くの川、一つの海:バングラデシュと好戦的イスラム教徒の挑戦)』の著者。