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Saturday, August 27, 2016

池田浩士: ヒトラーによる憲法破壊と安倍政権がたどる道 ――私たちは歴史から何を学ぶのか?Ikeda Hiroshi: Hitler's Dismantling of the Constitution and the Current Path of Japan's Abe Administration: What Lessons Can We Draw from History?

京都大学名誉教授池田浩士(いけだ・ひろし)氏による寄稿の英訳が8月15日、日本敗戦の日にThe Asia-Pacific Journal: Japan Focus に掲載されました。Here is the original Japanese version of Ikeda Hiroshi's article that was posted on the Asia-Pacific Journal: Japan Focus on August 15, 2016. 

Hitler's Dismantling of the Constitution and the Current Path of Japan's Abe Administration: What Lessons Can We Draw from History?

この論文の元の日本語文を筆者の許可を得てここに掲載いたします。7月の参院選で衆参ともに改憲派が3分の2以上を占める結果となり、安倍首相はこの秋の臨時国会から改憲の具体的議論をするとの意向を表明していることからこの論文は一人でも多くの人に読んでもらいたいと思います。池田氏は安倍首相を安易にヒトラーに見立てるのではなく「冷静に歴史を見つめ直し、そこから得た教訓を現在の私たちの適切な判断と行動のために役立てる必要がある」重要性を説きます。 @PeacePhilosophy

★この論文はリンク拡散歓迎です。転載の場合は、英文版のURLhttp://apjjf.org/2016/16/Ikeda.html とこのPeace Philosophy Centre ブログ上の日本語版のURLをソースとして明記した上、このブログのコメント欄に転載したことを報告してください。


ヒトラーによる憲法破壊と安倍政権がたどる道
――私たちは歴史から何を学ぶのか?
池田(いけだ)浩士(ひろし)
1.はじめに
安倍政権は昨年夏、強い危惧と反対を表明するする日本社会の世論を無視して、「安保関連法」と呼ばれる一連の法律を強行成立させた。この法律に対しては、法律家や憲法学者たちからも「明らかに憲法違反である」という批判が続出し、これの廃止を求める声は現在もなお弱まってはいない。

現行の日本国憲法がその前文と第9条で明記している「戦力の不保持」と「戦争の放棄」は、これまでにもすでに、この規定を骨抜きにし無効にするような様々な法律によって蹂躙されてきたが、安倍内閣が強行成立させた「安保関連法」は、「国際紛争を武力によって解決すること」を禁止する憲法に真っ向から違反して、「集団的自衛権」の名のもとに「自衛隊」が海外で実際に武器を使用して戦争行為を行なうことを、容認するものである。これは、同じ自民党の歴代政権さえもが一貫して「容認できない」としてきたことであり、自民党自身のこれまでの方針にも反する決定なのだ。この決定によって、日本という国家は、憲法を改訂さえしないまま、憲法に違反して、「戦争する国」となった。
自民・公明連立の安倍政権によるこの憲法蹂躙は、多くの点で、ヒトラーによるヴァイマル憲法の破壊という歴史的先例を思い起こさせる。言うまでもなく、現在進行している事態を過去の歴史事例と安易に結び付けて論じることは、慎まなければならない。「オオカミがやってくるぞ!」という扇情的な叫びや、「安倍は第二のヒトラーだ!」という単純なレッテル貼りは、本当に起こりつつある現実から人びとの目をそらすのみで、むしろこの現実に対処する道を誤らせかねないだろう。しかし、私たちは、過去の歴史から学ぶことができるのであり、学ばなければならないのである。デマゴギーを()き散らすのではなく、冷静に歴史を見つめ直し、そこから得た教訓を現在の私たちの適切な判断と行動のために役立てる必要がある。

2.ヒトラーはヴァイマル時代の公正な選挙によって政権の座に就いた
 アードルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)という政治家も、彼が率いた「国民社会主義ドイツ労働者党」(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei 英語に直訳すればNationalsocialist German Laborsparty)、略称「ナチ党」も、その党の構成員たちである「ナチス」(Nazis)も、現在では、もっぱら否定的な評価を込めてしか語られることがない。それは、彼らが行なったこと、つまり、政治的反対派の弾圧やユダヤ人とロマ民族のホロコースト、さらには「生きる価値のない存在」と彼らが名づけた障害者や「遺伝病者」、「労働忌避者」など社会的マイノリティの虐殺、そして侵略戦争と非戦闘員の殺戮などが、人類史上もっともおぞましい残虐行為として、記憶されているからである。しかし、そのヒトラーとナチ党は、周知のとおり、クーデタや陰謀によって政権の座に就いたわけではなかった。ナチ党は正規の国会議員選挙によって国会の第一党となり、党首であるヒトラーが合法的に大統領によって首相に任命されたのである。つまり、ドイツの有権者がみずからヒトラーを選んだのだった。しかも、その国会議員選挙は、その当時(そして今でもなお)歴史上もっとも民主主義的な憲法であるとされた「ヴァイマル憲法」の下で行われた。ヴァイマル憲法は、現在の日本国憲法もまたその多くを受け継いでいるような人権条項を含んでいた。思想・信条の自由、言論・出版の自由、集会・結社の自由、通信の秘密、居住の自由、身体の自由(令状なしには身柄を拘束されない)などが、それによって保障されていた。

そのような憲法がヒトラーのあの「独裁」を生んだということは、驚くべき歴史的事実である――と思われるのは、不思議ではない。だが、ヴァイマル共和制のドイツからヒトラー・ドイツへの道筋を具体的に見つめ直してみると、なぜこのような歴史過程が現実となったのかが、私たちにも理解できるだろう。そして、この歴史過程は、多くの点で、現在の日本の政治的・社会的な状況についての深刻な危惧を喚起させずにはいないのだ。

ヴァイマル憲法下のドイツ、いわゆるヴァイマル共和国には、多数の政党があり、それぞれに固い支持基盤があった。これらの諸政党のうち、長期にわたって最大勢力だった社会民主党(Sozialdemokratische Partei Deutschlands; Socialdemocratic Party of Germany)も含めて、14年間のヴァイマル時代に一度でも国会で過半数の議席を占めた政党は一つもなかった。これは、現在の自民党とその前身の政党がほとんどすべての時期を通じて政権を握ってきた第二次世界大戦後の日本とは、大きく異なる点である。その中で、一地方政党から出発したナチ党が、急速に勢力を伸ばして、ついに国政第一党となり、政権を掌握したのだった。だが、そのナチ党も、実は、国会で過半数を占めたことはついになかったのである。1933年1月30日に政権の座に就いたとき、わずか三分の一の得票率と、同じ比率の議席数しか持たなかったナチ党のヒトラー首相は、首相を含めて12人の閣僚からなる内閣に、首相以外にはわずか2名のナチ党員しか入閣させることができなかった。  そこでヒトラーは、政権成立の2日後に国会を解散して、3月5日に出直し選挙を行なった。すでに警察力を握っていたヒトラー政府は、批判勢力に対するすさまじい妨害を繰り広げた。それにもかかわらず、ナチ党は得票率約44%で、総議席数647のうち288議席を得るにとどまったのだった。注目すべきことに、この得票率は、日本におけるもっとも最近の国政選挙である2014年12月の衆議院議員選挙のさい、比例代表の枠で自民・公明の連立与党が獲得した得票率、約47%と近い数値である。現在の日本の場合は、国政選挙での投票は小選挙区と比例代表枠との複合になっており、小選挙区での高い議席獲得数が政府与党の圧倒的な勝利につながっている。しかし、有権者の政党支持率を客観的に反映しているのは、比例代表枠での得票率である。そこで47%の支持しか得ていない自公連立の安倍政権は、実は有権者の半数以下の支持しか受けていないのである。

小選挙区が与党を圧倒的に有利にする現在の日本の制度とは対照的に、ヴァイマル時代のドイツの選挙制度は、考えられる限り公正に民意を反映するものだった。全国一律に比例代表制のみで、有権者は自分が支持する政党に投票し、各政党は得票数6万票ごとに1議席を獲得する仕組みになっていた。しかも、ヴァイマル時代の国会議員選挙の投票率は、70%台後半から80%台後半と、概して極めて高かった。1933年3月5日の選挙(これが、事実上、ヴァイマル憲法の下での最後の選挙となった)では、投票率は88,7%に達していた。この選挙でのナチ党の得票率44%、獲得議席数288は、客観的に民意を反映していたと言える。すなわち、この時点でもナチ党は、第一党であるとはいえ有権者の半数以下の支持しか得ていなかったのだ。それにもかかわらず、ヒトラーは、あのような独裁体制を実現することができたのだ。これは、私たちが現在の安倍政権の政治について考えるとき、大きな示唆を与えてくれる事実である。

3.もっとも民主的な憲法がなぜヒトラー独裁を生んだのか?
 たとえ半数以下の支持しか得ていなくとも、政権を握れば民意に反した政治を断行できるということを、ヒトラーとともに日本の安倍政権も、私たちに教えてくれる。とは言え、ヒトラーのナチ党も安倍の自由民主党も、曲がりなりにも国政選挙で第一党、最大の議席数を獲得したのである。では、ヒトラーのナチ党は、なぜ国会の第一党になることができたのか? そして、誰がそのナチ党を支持したのか?

 ナチ党が国政舞台で初めて大きな注目を浴びるようになったのは、1930年9月の国会議員選挙での躍進によってだった。この選挙で、それまでわずか12議席だったナチ党は、一挙に107議席を獲得して、一躍国会第二党となったのである。それは、1929年10月に始まる世界経済恐慌が生んだ一つの大きな結果だった。世界恐慌によって、第一次世界大戦の敗戦国であるドイツは、ようやく始まりつつあった戦後復興から、一挙に不況のどん底に落とされた。失業率は急激に上昇し、深刻な社会不安が増大した。その中で、ナチ党は党首ヒトラーの決断力と指導力と実行力を売りものにし、ヒトラーは「強いドイツを取り戻す!」と叫んで、有権者を惹きつけた。失業率は、ヒトラー政権誕生の前年、1932年にはついに「完全失業率=44,4%」という驚くべき高率に達した。この年の7月の国会選挙で、「失業をなくす!」と叫び続けたヒトラーのナチ党は、得票率37,4%でついに国会の第一党となった。同年11月の選挙では得票率33,1%に後退したが、第一党の地位を保ち、1933年1月30日、大統領はヒトラーを首相に任命せざるを得なくなったのだった。

 では、ナチ党に投票したのは誰だったのか? 実は、ナチ党に投票したのは、失業者ではなかったのだ。さまざまな統計を分析した結果、つぎのようなことが明らかにされている。すなわち、失業者たちが投票したのはドイツ共産党(Kommunistische Partei Deutschelands; Communist Party of Germany)だった。今はまだ失業していないが、次は自分が失業するのではないか、という不安を抱くいわゆる無党派層が、ナチ党に一票を投じたのである。これは、安倍政権が、「三本の矢」、「新三本の矢」と、経済政策を矢継ぎ早に打ち出して、失業不安や先行き不安におびえる人たちの支持を取り込んでいる事実を、思い起こさせる。
 ヒトラーのナチ党はまた、「仮想敵」をつくることによって、人びとの不安を自分たちの側に惹きつけた。「この大失業は、ドイツ人から職を奪っている奴らがいるからだ」、「我々はそいつらからドイツ人のために職を奪い返す!」と叫び、生活困窮と社会不安を特定の社会構成員たちの仕業であると主張した。こうして、ユダヤ人に対する敵意と差別が煽られ、ユダヤ人大虐殺(ホロコースト)に至る道が開かれた。だが実は、当時ドイツのユダヤ人は、人口のわずか0,9%にも満たなかったのである。そのユダヤ人が、完全失業率44,4%という事態に対する責任を負っているはずもない。それをナチスは仮想敵として宣伝し、ユダヤ人への敵意を増殖させた。こうしたデマゴギーもまた、安倍政権の手法を思い起こさせる。安倍政権は、韓国や中国の脅威を強調し、この両国を事実上「仮想敵国」としている。そのことによって、日本国内の世論が反韓国・反中国へと導かれ、「ヘイトスピーチ」としても表われているような在日外国人に対する排外主義的憎悪の下地となっている。生活が苦しければ苦しいほど、近い将来に対する不安が大きければ大きいほど、私たちは、仮想敵に対する憎悪をかきたてる言動によって動かされやすくなるのだ。

 ヒトラー・ナチスと安倍政権とのこうした個別的な類似点を指摘すること自体に、意味があるのではない。ヒトラーと安倍によって導かれている私たち自身を、改めて見つめ直すことが、重要なのだ。私たちの歴史上の先行者であるヴァイマル時代のドイツ「国民」は、このようにしてヒトラーに追従した末に、ヴァイマル共和制がヒトラー独裁を生むことを許してしまったのである。

 ヴァイマル憲法を否定していたヒトラーは、憲法の改訂をいわば「悲願」にしていたにもかかわらず、1933年3月の出直し選挙でも、憲法改定に必要な三分の二以上の議席を得ることができなかった。そこで彼は、「全権委任法」と通称される法律(正式名称は「帝国Reichと民族民衆Volkの苦難を除去するための法律」)を、新しい国会で強行採決し、成立させたのである。この法律は、立法府である国会の権限を奪って、政府が法律を制定できることを定めていた。しかも、政府が制定する法律は国会の事後承認さえも必要とせず、首相(つまりヒトラー)が認証すればよいことになっていた。それどころか、その第2条では、政府によって制定される法律は「憲法に違反することができる」と明示されていたのである。この「全権委任法」によって、ヴァイマル憲法に基づく共和制は崩壊し、ヒトラー・ナチ党による独裁体制が「合法的」に始まることになった。

 では、なぜ国会はこのような法律を成立させたのか? あるいは、ヒトラーによる憲法破壊は充分に予想されることだったにもかかわらず、なぜ3月の国会選挙でナチ党が議席を伸ばし、第一党の座を守ることができたのか?――この二つの疑問に答えるためには、二つの歴史的事実を見なければならない。まず第一に、国会がこの法律を成立させるにあたっては、ある一政党の役割が決定的な意味を持ったのである。ヴァイマル憲法の下でも、憲法改定や、憲法の規定を変更するような法律の制定には、国会議員総数の三分の二以上の出席と、出席議員の三分の二以上の賛成が必要だった。すでに述べたとおり、ナチ党だけではこの数に遠く及ばなかった。ナチ党に賛同する極右諸政党の議席数を加えても、必要な数には届かなかった。ところが、護憲勢力である「ヴァイマル連合」の一翼を担ってきたカトリック政党のドイツ中央党(Deutsche Zentrumspartei; German Central Party)が、法案採決の直前に、自己保身のためにヒトラーに追随する道を選び、欠席戦術を放棄して「全権委任法」に賛成票を投じたのである。この事実もまた、日本の現在の政治状況を思い起こさせるかもしれない。いずれにせよ、法律を自由に制定できるようになったヒトラー政府は、ほどなく「政党新設禁止法」という法律を制定して、ナチ党以外の政党の新設と既存政党の存続を禁止したので、信念を捨ててヒトラーに追随することで政治権力を保持しようとした宗教政党、ドイツ中央党もまた消滅した。

 では、そもそもなぜ3月の選挙でナチ党が勝利したのか、という第二の問いについても、具体的な歴史的事実がその答えを示している。それは、「全権委任法」以前に、すでに憲法を破壊する政治的実践が、ヒトラーによってなされていたという歴史的事実である。たしかに、安倍政権が2015年夏に強行成立させた「安保関連法」は、日本でもすでに少なからぬ人びとが指摘しているように、ヒトラーの「全権委任法」と比肩するような憲法破壊の重要な一コマだった。しかし、ヒトラーは「全権委任法」によってだけ憲法を破壊したのではなかった。ナチスの場合も安倍政権の場合も、憲法破壊は「全権委任法」と「安保関連法」だけにとどまらないのである。

4.「大統領緊急命令」条項と自民党の改憲草案
 もっとも民主的とされるヴァイマル憲法は、しかし、その第48条で「大統領緊急命令」という例外的な権限を大統領に与えていた。「公共の安寧と秩序が著しく破壊されもしくは危険にさらされるときは、公共の安寧と秩序の回復のために要する措置を、必要な場合は武力を用いて、講じることができる」という権限を大統領に与え、この目的のために、憲法が保障する基本的人権を一時的に全部もしくは部分的に失効させることを、認めていたのである。このいわゆる「国家緊急権」を二度にわたって発動することによって、ヒトラーとナチスは、政権獲得後の国会議員選挙の選挙戦に、強力な介入を行なった。大統領ヒンデンブルクに布告させた第一回目の大統領緊急命令は、政府やナチ党にたいする批判、ストライキの呼びかけなどを禁じ、これに反する集会や印刷物を禁止した。これによって、反対派の諸政党が選挙運動を大幅に制限されたことは、言うまでもない。投票日の一週間前に起きた国会議事堂放火事件は、第二の大統領緊急命令の口実とされた。この緊急命令によって、大統領や政府要人の殺害を謀議したり教唆したりしたものは死刑または終身刑もしくは15年以上の懲役刑に処せられることになり、放火犯は共産主義者だったという真偽不明の根拠でドイツ共産党が禁止され、国会議員選挙の共産党候補者全員に逮捕状が出された。「謀議」や「教唆」という容疑は、警察・検察当局によるいわゆるデッチ上げがもっとも容易にできるものであることは、改めて言うまでもない。この二度にわたる大統領緊急命令こそは、「全権委任法」に道を開いたものであり、ヴァイマル憲法に致命傷を負わせた政治暴力にほかならなかった。

 ところが、この事実もまた、ヒトラーとナチスが行なった過去の暴虐にとどまるものではないのである。安倍首相が繰り返し自らの「悲願」であることを訴えている憲法改定と、それは無縁ではないのだ。自民党が2012年に発表した憲法改定草案は、その第98条と第99条で、「緊急事態の宣言」とそれにともなう措置について規定している。第98条では、「内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる。」とされている。そして第99条では、「緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。」とされている。

 ヒトラーは、欧洲大戦(第一次世界大戦)の敗戦国ドイツが戦後のヴェルサイユ条約で過酷な賠償責任を負わされ、歴史ある文化国家としての誇りも踏みにじられて、戦後復興もはたせぬまま大失業状況に苦しんでいる現状をアピールした。安倍首相は、現行の日本国憲法を戦勝国による「押し付け憲法」であるとする自民党の一貫した主張を受け継ぎ、さらに強調して、自分の政権の下で「改憲」を実行することを公言している。そして、どの国であれ憲法に「緊急事態」条項があるのは当たり前のことだ、という意味の主張をしている。だが、日本国憲法は、当たり前のことではないことを規定することによって、「戦争によらない平和」を実現する決意を全世界に示したのである。日本国憲法が、ヴァイマル憲法にさえあった緊急事態条項、それが歴史的事実としてヒトラーへの道を開くことになった緊急事態条項を含んでいないのは、戦力の不保持と戦争の放棄という基本理念とまったく同一の理念の表明にほかならない。

5.誰が政治と社会の主体なのか?――日本国憲法第12条の意味
 政権を掌握し、さらには法律も自由に制定できるようになったヒトラーは、あのすさまじい大失業状況をわずか数年で本当に解消した。首相就任の時点には半数にも満たなかったヒトラーに対する「国民」の支持は、年を追って急上昇した。それどころか、ヒトラー体制は、ドイツの敗戦後、ナチスの数えきれないほどの残虐行為が明らかにされたのちも、体験者たちの圧倒的多数が「あの時代は良かっ」たと回想するほどの安定感と充実感を「国民」にもたらしたのだった。彼らがそう感じているかたわらでは、社会のマイノリティたちが、自由をも生命をも奪われていたにもかかわらず。

 戦後初期のドイツでは、「あの残虐行為や侵略戦争をやったのはヒトラーとその配下のナチスどもであり、ドイツ国民はむしろ被害者だった」、「国民は知らなかったのだ」、あるいは、「だまされていたのだ」、という見解が支配的だった。この見解は、悪いのは軍部と財閥と国粋主義者たちだった、という戦後日本の一般的観念と共通している。
 ナチス・ドイツの時代について、戦後ドイツで「あの時代は良かった」という実感が生き続けたことには、根拠があった。ヒトラー体制は、現実に、失業を解消したばかりではなく、「生き甲斐のある」社会をつくったからである。ナチスは、文字通り、ボランティア社会を実現した。大失業状況が解消されたのも、ボランティア労働によるところが大きかった。ナチスは、ヴァイマル政府の施策を受け継いで、失業者を「自発的労働奉仕」という名のボランティア労働に従事させ、さらには失業者以外の若者たちにもそれを奨励した。これによって、多くの国民が、現在の窮状からドイツが脱出するために自分の自発性と社会貢献の精神を役立てることを、当然の義務と感じ、それに誇りを抱くような社会的風潮が醸成された。そして、「自発的労働奉仕」自体が失業を減少させることはなかったが、法外に安い賃金(チップ)だけで労働力を使うことができるようになった土木建設業や基幹産業が、それによって利潤を蓄積し、やがて正規の従業員を雇うことができるようになったのである。この過程は、貧困と格差が広がる中で企業が利潤を内部留保し、非正規雇用がますます拡大することで統計上では失業率が低下し続けている現在の日本の状況と、無縁ではない。

ボランティア精神が社会に行きわたったころ、ヒトラー政府は、1935年6月、「自発的労働奉仕」にかわる「帝国労働奉仕」(Reichsarbeitsdienst)の制度を法律によって定め、18歳から25歳の間に6カ月の労働奉仕に携わることを、国民に義務づけた。正規の労働者賃金の15分の1にも満たない小遣いと引き換えになされたその奉仕労働によって行なわれた建設工事でもっとも有名なものは、自動車専用高速道路(アウトバーンAutobahn)である。

 その一方で、ヒトラー政府は、失業者や生活困窮家庭がとりわけ暮らしにくい冬の期間を「国民」全体が支援するため、というキャッチフレーズを掲げて、「冬季救援事業」というボランティア活動を呼びかけた。人びとは、これに応じて募金活動や救援物資を集める活動に自発的に参加することになった。これ以外にも、社会の様々な部署で、すべての国民に、「自発的な」活動の場が用意された。こうして、国民は、国土建設の主人公となり、社会的活動の主体となったのである。ナチス・ドイツは、まさに、安倍内閣が目標とする「一億総活躍社会」だったのだ。ちなみに、自発的労働奉仕にかえて労働奉仕義務を定めた「帝国労働奉仕法」の制定は、ナチス・ドイツがヴェルサイユ条約の桎梏を破棄して徴兵制を復活させることを宣言した日から、3か月後のことだった。

 ヒトラーが歩んだ道をあらためてたどってきたのは、それが現在の日本で繰り返されてはならないからである。1930年代のドイツが日本に再現するということを、私は言おうとしているのではない。それを再現させないのは私たちである、ということを、改めて確認したいのだ。もっとも民主的だとされるヴァイマル憲法を、ヴァイマル・ドイツの「国民」たちは生かすことができなかった。彼らは、窮状から脱出することを、ヒトラーという政治家にすべて委ねてしまったのだ。それとは別の道を選ぼうとするとき、私たちは、あらためて私たちの憲法と向き合わなければならないだろう。「憲法は為政者や権力者を縛り、彼らに義務を負わせるものであって、国民に義務を課するものではない」という言いかたが、とりわけ現行憲法を擁護する立場の人びとによって、しばしばなされる。だが、日本国憲法はその第12条で「この憲法が保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これをほじしなければならない」と定めているのでる。自らの自由と権利を護り実現する義務と責任は、為政者や政治家ではなく、私たち自身にあるのだ。議会制民主主義とは、職業政治家に全権委任することではない。

ヒトラーは「全権委任法」によって全権委任を国民から要求し、それを国民に義務付けた。自民党の改憲草案もまた、「緊急事態」を口実にして政府への全権委任を国民に義務付けることを、実行に移そうとしている。私たちは、ただ単に「護憲」を言い続けるのではなく、憲法に反した現実を覆して憲法の理念を生かすために、政治と社会の主体にならなければならない。だが、それはそのような主体なのか?――ナチス・ドイツの「国民」たちは、用意され管理され操作された様々なボランティア活動を通じて、社会の主人公となった。その彼らには、自分たちが溌溂と生きる傍らで差別され抹殺されていく少数者たちを、見ることができなかった。私たちは、むしろそのような社会のマイノリティを見つめることによって、圧倒的多数に居直る現政権には見えないものを見るのである。私たちは、そういう社会的主体なのである。たとえ数の上では少数者であっても、その少数者こそが、多数派の傲慢と暴虐を許さない責任を負っている。民主主義社会は、そのような少数者によってこそ、民主主義を実現するのだ。国会の第一党となったヒトラー・ナチスの歴史は、私たちに、いまこそ、それを教えているのである。

池田浩士(いけだ ひろし)

1940年生まれ。
元京都大学教員、現在は同大学名誉教授。
研究分野は、ドイツ文学・ファシズム文化論。
主な著書:
『ファシズムと文学―ーヒトラーを支えた作家たち』(1978年)
『抵抗者たち―ー反ナチス運動の記録』(1980年)
『〔海外進出文学〕論』シリーズ、全5巻、既刊3巻(1997年~)
『虚構のナチズム――「第三帝国」と表現文化」(2004年)
『子どもたちと話す 天皇ってなに?』(2010年)
『ヴァイマル憲法とヒトラー――戦後民主主義からファシズムへ』(2015年)
『池田浩士コレクション』全10巻、既刊5巻(2004年~)
 

Wednesday, August 24, 2016

長崎原爆朝鮮人被爆者追悼早朝集会メッセージ:高實康稔 Remembering Korean Victims of Atomic Bombs: Yasunori Takazane's Speech in Nagasaki

今年も「原爆投下」を記憶する広島と長崎の日が終わった。 今年は思うところがあって市の公式の式典には行かなかった。日本を戦争に導こうとする好戦的政治家が「核廃絶」などと心にもないことを述べる場にいるのは虫唾が走る。何より今年は、この10年、朝鮮人被爆者を無視・軽視する式典に平気で出られていた自分を恥じる機会があった。今年は、日本人として、朝鮮人被爆を招いた日本の植民支配と侵略戦争に対し謝罪と反省の気持ちをこめて、朝鮮人被爆を記憶する場所で8月6日の午前8時15分と8月9日の午前11時2分を迎えることにした。8月6日の朝は、「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」の前にいたら、朝日新聞の記者に取材を受け、なぜそこにいるのかと聞かれたので上記のような思いのたけを伝えた。記者は熱心に話を聞いていたが結局記事になることはなかった。8月9日は毎年長崎の朝鮮人被爆者追悼碑の前で行われている「長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼 早朝集会」に出た。「黙祷」のかわりに「沈黙」という言葉を使うなど、宗教色を排した進行に感銘を受けた。今年もこの集会で「メッセージ」を述べた高實康稔氏のスピーチテクストを、許可をもらって転載する。@PeacePhilosophy

 
 長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼早朝集会メッセージ 

 米軍がこの長崎の街にブルトニューム原子爆弾を投下したあの日から七一年目の朝を迎えました。私たちは朝鮮人原爆犠牲者に思いを馳せて追悼碑の前に集っています。どれほど無念であったことでしょう。この追悼碑は牧師で市議会議員でもあった岡正治先生の尽力によって一九七九年八月九日に建立されましたが、「無論、このささやかな追悼碑の建設によって、かつて日本帝国主義が、朝鮮を武力で威嚇し植民地化し、その民族を強制連行し、これを虐待酷使し、強制労働に従事させ、遂にはあの悲惨な原爆死に至らしめた戦争責任は決して消滅するものではない」、「さらにこの地上から核兵器が絶滅されるように積極的に行動する決意を新たにするものである」と述べられた建立式式辞をあらためて思い起こします。以来三七年、日本の戦争責任を追及するとともに核兵器の廃絶を願った岡先生のこの思いはどれほど達成されたでしょうか。

 九死に一生を得て帰国した韓国・朝鮮人被爆者の援護にしても、日本政府は国内被爆者との平等な待遇を拒み続け、在韓被爆者の積年の裁判闘争によって、不完全ながら被爆者援護法の適用が実現したのは二〇〇三年のことでしたし、医療費の平等支給が最高裁判決によって実現したのは戦後七〇年を過ぎた昨年九月のことでした。しかも朝鮮民主主義人民共和国の被爆者は未だに何の援護も受けられず完全に見捨てられています。加えて、被爆者健康手帳の取得に証人もしくは証拠資料を求め続け、本人の証言がどれほど信憑性が高くても、手帳の交付申請を却下する事例が跡を絶ちません。韓国の政府機関である強制動員被害調査委員会が動員と原爆被爆を認定していても何ら考慮されません。時の壁のみならず、日本の戦争責任という朝鮮人被爆者の歴史的背景を無視した暴挙といわざるを得ません。因みに申請者の証言数例が長崎在日朝鮮人の人権を守る会発行の『原爆と朝鮮人』第7集にあります。

 非人道的な兵器として核兵器の廃絶を訴える国際世論は高まりつつありますが、核兵器保有国の反対のみならず、日本政府もこの国際世論に背を向けて米国の核の傘に依存し、核先制不使用宣言の検討にさえ異議を唱えました。被爆国日本に対する内外の批判と失望はもとより避けられません。本年五月二七日、米国のオバマ大統領が広島を訪問して長文の所感を表明しましたが、原爆投下に対する謝罪はなく、「核兵器のない世界を目指す勇気」を表明したのみで具体的な対策が示されなかったことは衆目の一致するところです。「落胆した」という率直な感想が内外の被爆者から寄せられました。また、オバマ大統領は日本人被爆者と会い抱擁しましたが、そこには韓国人被爆者の姿はありませんでした。「現地を訪問した韓国人被爆者たちは、オバマ大統領が『韓国人原爆犠牲者慰霊碑』を訪問しなかったことについて、残念な気持ちを隠せなかった」とハンキョレ新聞は速報で伝えるとともに、「韓国人被爆者に言及したのは不幸中の幸い」としつつも、「今日のオバマ大統領の訪問式典に韓国人被爆者は一人も入れなかった。今朝、あまりにも悔しいので広島市長に電話して、なぜ入れてくれないのかと抗議した」という広島での被爆者の声を報じています。「韓国人被爆者が一人も入れなかった」のは、広島市長の独断ではなく日本政府が「入れさせなかった」からに違いありません。韓国原爆被害者協会がオバマ大統領に「慰霊碑への献花」を事前に要請していただけに、日本政府はこれをも阻止した疑いがあります。韓国政府も同様の要望を「外交チャンネルを通じて米国政府側に伝えた」(同紙)とのことですが、韓国からの要請の有無にかかわらず、三万人もの朝鮮人が広島原爆の犠牲となったそもそもの原因を思えば、安倍首相こそはオバマ大統領と共に「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」に赴いて謝罪すべきであったと確信します。それは一昨年八月に長崎を訪問したオリバー・ストーン監督が、「米国の原爆投下の失敗は無差別大量虐殺の国際法違反というだけではなく、日本国民に被害者意識を植えつけ、加害国日本を被害国に変貌させたことにある」と語ったことを彷彿とさせるからです。さらには、ノーベル平和賞を受賞したパグウオッシュ会議のジョゼフ・ロートブラット会長(当時)が長崎での講演(一九九五年夏)で、「マンハッタン計画は当初からソビエトが敵であり、ソビエトを打ち負かすために始められたものだということを最高責任者グローヴズ将軍から直接聞いた」、「従って、広島・長崎の破壊は第二次世界戦争の終結というよりも、冷戦の始まりを意味する」と語ったことからも明らかなように、原爆投下の目的が当初から対ソ戦略の一環であったことをオバマ大統領が知らないはずはないからです。

 以上の見地に立って、私はつぎのとおり、日本政府に要求します。

一、被爆者健康手帳の申請には最大限本人の証言を重視して対応すること

一、朝鮮民主主義人民共和国の被爆者に被爆者援護法適用の道を開くこと

一、安全保障関連法を廃止し、憲法九条を厳守すること

一、日朝ピョンヤン宣言に基づき、朝鮮民主主義人民共和国と国交を正常化すること

   最後になりましたが、早朝にもかかわらず、多数ご参集くださいましたことに厚く御礼を申し上げます。

  二〇一六年八月九日 


長崎在日朝鮮人の人権を守る会代表 髙實康稔


2016年8月9日 早朝集会

朝鮮人原爆犠牲者追悼碑の裏面の文言。

朝鮮人原爆犠牲者追悼碑横の説明版。

Friday, August 12, 2016

終戦記念日に寄せて―被害者であるまえに加害者だった―: 小林はるよ Haruyo Kobayashi: Commemorating August 15 - Japan was First and Formost the Victimizer of the War

日本で「終戦記念日」と呼ばれる8月15日を前にして、当ブログに前回「私にとっての中国 日本にとっての中国」というエッセイを提供いただいた長野県の有機農業家、小林はるよさんに再登場してもらいます。1945年8月15日は天皇裕仁がポツダム宣言受諾、つまり大日本帝国の米英中への降伏を国民に知らせた日です。一般には「戦争時の苦労を振り返り、平和を祈り願う日」と理解されているようですが小林さんの一文はそのような曖昧で無責任な認識から踏み込み、「国家的記念日」とされている8月15日の意味を問い直すことを日本人に求めているものと思います。8月15日は日本に植民支配・侵略された国や地域にとっては「独立」「解放」を象徴する日―連合軍の捕虜を含めて、「命が助かった日」なのです(もちろんそう思った日本人も多い)。やられた側に立って考える―それが日本人が本当に平和を創る当然の第一歩であり、「戦後」あまりにも軽視されてきた姿勢ではないかと思います。@PeacePhilosophy



終戦記念日に寄せて

― 被害者であるまえに加害者だった -

小林はるよ

 日本で国家的な行事が行われる記念日は、しばらく前までは、原爆記念日と終戦記念日でした。記念日は、単に国家的であるだけでなく世界史的な意義を持つ日であるために、国家的記念日になるのでしょう。東日本大震災の起きた311日も、国家的な記念日になりつつあります。

 東日本大震災の被害が地震と津波だけであったなら、国家的な記念日にはならないでしょう。東日本大震災は、これから何百年ものあいだ、世界中に影響を及ぼす歴史的な事故である福島の原発事故のきっかけとなったために、国家的記念日になろうとしています。ところがふしぎなことに、311日のころのマスメディアは、原発事故についてはほとんど報道しません。津波の被害がいかに悲惨だったか、いかに地域が悲劇にくじけることなく、「元のように」復興しつつあるかが、当事者、支援者によって語られるのです。

 こうした東日本大震災の記念日のあり方は、原爆記念日と終戦記念日のあり方と、よく似ています。どの記念日も、毎年その日になると、日時も式次第も、例年どおりの式典が行われる年中行事、季節の行事になっている感があります。私は現在の日本の国家的記念日の式典は、基本的に災害被害者の追悼式だと思います。

外国の国家的な記念日は、独立記念日とか戦勝記念日、革命記念日等、その国の現在の体制の出発点になった日を記念して祝い、これからもこの体制を発展させましょうとの、思いを、国民的に新たにするという主旨のようです。そして、こうした主旨には、記念日以前の国家的状況が、歴史的に倫理的にまちがったものであり、現在の体制がより良いもの、進歩したものだという認識が含まれていると思います。

原爆記念日と終戦記念日も、その出発の時点では、それまでの日本の国家体制と侵略戦争への反省をふまえて、日本がこの日を機に平和的な民主的な国になる、そのうえで、二度と核兵器の被害をこの世に起こさせない国になるという主旨を持っていたはずでした。少なくとも日本の侵略の犠牲になったアジア諸国の人々は、当然、これらの国家的記念日は、そうした主旨に基づいているものと思っていたでしょう。

けれども日本国民の多数は、日本の核武装を主張する閣僚がいる政権の成立を許してしまいました。その政権はなるべく早い機会の改憲も意図しています。要するに、原爆記念日と終戦記念日はどちらも、当初の主旨を実現していないのです。(東日本大震災の記念日は、原発事故が起きた日であることを隠して、津波の被害者を追悼し、地域の復興を讃える記念日になっています。)

いろいろ妨害要因はあったにしても、けっして少なくない人々が、日本という国は終戦を機に平和的な国、民主的な国として再出発するという主旨の実現を目指して、それぞれ努力してきたはずです。そうした努力にはいったい何が欠けていたのだろう。何がまちがっていたのだろう。結論としては、終戦のその日までは、日本がアジア諸国に対する侵略国であったという認識、それゆえに、日本はアジアの諸国に対して一方的な加害国だったという認識が、完全に欠けていたのです。

敗戦を機に、日本が平和的な民主的な国として再出発するという主旨にとっては、現憲法が公布された日(1946113日)のほうが、よりふさわしかったはずです。けれど、それは祝日にはなりましたが、国家的記念日にはされずじまいでした。

降伏した日を国家的記念日として、現憲法公布の日を国家的記念日にしなかったのは、日本政府にも、そして大多数の日本人にも、終戦であれ敗戦であれ、戦争とはアメリカとの戦闘のことだという理解しかなかったことの表れです。ポツダム宣言は、アメリカだけではなく英国と中華民国への無条件降伏を求めており、日本の世界征服の企ての停止を求めていました。無条件降伏が文字どおりの無条件であるならば、「国体の護持」も降伏の条件にはならないはずでした。それを降伏の条件のように了解し合っていたのは、日本とアメリカだけでした。

降伏した日、屈辱の日であるはずの日を国家的記念日にするふしぎ。そのふしぎは、現憲法公布の日を国家的記念日にせず、終戦記念日を国家的記念日にした日本政府にとって、その日はアメリカによって国体が護持された日、国体が「安堵」され、国体が存続しうることになった日だったからと考えるとつじつまが合います。

アジアの人々が日本の侵略によって被ることになった被害や屈辱の認識は、正直に言えば私自身にも、せいぜい、この二十数年来のこと、日本の右傾化がますますはっきりしてきてからのことです。それまでは私も、反戦・平和の運動とは、自分たちの被った被害の悲惨さを確認し合うこと、語り継ぐこととばかり、思っていました。そうしていれば、「あんな悲惨な体験をすることには二度となってほしくない」と誰でも思うに決まっていると思っていたことになります。

平和教育にしても、子どもたちにも被害者としての悲惨や悲劇を語り継ぎ、疑似体験させていれば、自分たちはそんな目に合いたくないと考えるようになるはずと思ってきたことになります。日本でも平和教育はされてきたのです。原爆ドーム、ひめゆりの塔への修学旅行も、語り部の悲惨な体験談を聞かせることも、盛んに行われてきました。教科書にも採択されている童話「一つの花」や「ちいちゃんのかげおくり」も、戦争の究極の被害者、子どもの悲劇、戦争のもたらす悲劇を描いています。

それなのに、若者のあいだの改憲支持者の率は高いようです。日本の平和教育は、まちがっていたのです。「一つの花」も「ちいちゃんのかげおくり」も、どちらも、出征兵士の父を送り、その父を失う子どもたちの悲劇。でも、自分たちの家や土地を奪い、抵抗する者を殺したり強姦したりする兵士たちが送られる先にいる子どもたちの悲劇は、物語にはできないほど、悲惨でしょう。日本の反戦童話は、兵士が送られた先の人々に読ませられる物語ではありません。

日本には今、就業や結婚のためたくさんのアジア諸国出身の人々が暮らしています。その子どもたちは、日本の学校に通い、教科書でこうした「反戦童話」を読むことになります。先生たちは、出征する父親が、どこへ何をしに行ったのか、子どもたちに話せるのでしょうか。

私が子どものころから反戦派のつもりだったのは、フィリピンに終戦のほぼ1年前に召集されて従軍した父の影響です。父は、「アメリカとの戦争は負けだ」と、同僚と激論したことがあると言っていました。その父にとっても、戦争は、フィリピンを舞台にアメリカとしたもの、でした。フィリピンは戦争の舞台にすぎなかったのです。父は「フィリピンゲリラ」という言葉をときどき使いました。それで私は「ゲリラ」という言葉を憶え、フィリピンをジャングルの中に「ゲリラ」が出没する、未開な地域であるようにイメージしました。日米戦争は侵略国同士が、侵略した地域を蹂躙して争った戦闘だったことを知ってから、「リベラル」を自認していた父の、アジアの国々と人々についての見方の限界を知るようになりました。そして私がその父の見方の限界を受け継いでいたことも。

今も815日が近づくと、平和を願い、不戦を祈る集いが催され、戦争の悲惨、悲劇が語られます。「こんなご時世だから」なおのこと、心してそうした集いをせねばとお誘いの文が呼びかけてきます。空襲被害の悲惨、飢え、物資の不足、家族の戦死・・・それらの経験は悲劇には違いありませんが、そうした被害は、日本が加害に乗り出していなかったら、ありえなかった被害です。日本は明治維新以来、ほんの最近まで、日本がアジアでは唯一の加害国であったことを自覚できていませんでした。今も、国家としては侵略加害を否定し続けています。まず加害があっての被害だったことを自覚しない反戦、非戦の訴えは、国内の反戦派を増やすこともできず、子どもたちを反戦・平和の担い手に育てることもできませんでした。戦争被害体験を聞く私は、加害があっての被害だったことを、気まずい沈黙をもって終わることになっても、経験していない人にはわからない、と非難の目を向けられても、語らなければならなかったと、悔いとともに思います。

戦争に反対するということは、平和を願ったり、戦争がないようにと祈ったりすることではなく、戦争の悲惨や悲劇を語り合うことでもなく、自分たちの政府が戦争を起こすことを止めさせることであり、自分たちの政府が戦争を企てることに反対することなのです。


こばやし・はるよ
岡山県出身。無農薬栽培「丘の上農園」経営。「言葉が遅い」問題の相談・指導に携わってきた。長野県在住。

小林はるよ氏の前回の投稿(6月22日)
私にとっての中国 日本にとっての中国

関連投稿(2015年8月15日)
乗松聡子「降伏70周年の日に―内向きの戦史観からの脱却を

Friday, August 05, 2016

ヒロシマの日に―被爆者・米澤鐡志のオバマ広島訪問批判 Hibakusha Yonezawa Tetsushi's Criticism of Obama's Visit to Hiroshima

今日は広島原爆71周年の日。ブログ運営者は、例年のようにアメリカン大学と立命館大学合同の広島・長崎平和学習の旅の仕事で広島に来ている。この旅でいつも被爆証言をしてくださる広島被爆者で『ぼくは満員電車で原爆を浴びた』(小学館、2013年)の著者、米澤鐡志さんに、オバマ大統領の広島訪問にあたって書いた文の掲載を許可いただいた。@PeacePhilosophy 
米澤さんの本



オバマの広島訪問について 


私はオバマ大統領の被爆地広島訪問がきれいごとで済まされ、安倍のアジア侵略の否定とオバマの世界戦略が組み合わさる忌まわしい同盟が日本のマスコミをはじめとして、日本の戦争責任やアメリカの人類に対する犯罪を、歴史から葬り去ろうとする流れが許されないと思った。

今回のオバマ訪問についてマスコミは歓迎ムードを作り出した。安倍はその失政を覆い隠すためにサミットと広島開催を最大限に利用した。

残念ながら、日本の戦争責任、なかんずくアジア侵略を批判、反省しながら、アメリカの原爆投下の誤りを指摘して反核運動を続けその軸になって、「核と人類は共存できない」と訴えてきた、多くの指導者が鬼籍にはいってしまった。

そのため多くの被爆者が有名無名を問はず、オバマの広島訪問を歓迎、ないし好意をもって対処していた。「はだしのゲン」の中沢啓治夫人は、中沢が生きていたらオバマ来広を喜び、「謝罪してほしい」と思っただろう、と談話している。中沢は作品の中で原爆投下をナチのホロコートと同じと言っていた。

しかし他の被爆者や遺族はやはりマスコミが作りだす歓迎ムードの誘導に乗せられている。

式典の後のオバマ大統領と被爆者坪井との握手も私には空々しく感じられたが、直後に抱擁し涙を流していた森重昭という人はアマチュアの歴史家で、被爆死をした米軍捕虜の研究をしていた人らしい。一般には知られておらず、一部の米空軍関係者しか知られていないようだ。最初は当時の米軍捕虜を式典に招くという構想だったらしいが、前記森氏が被爆者であったこともあり,登場したようだ。安倍の配慮かアメリカ側の要求かはわからないが、謝罪を拒むアメリカ側をどうしても、広島に連れていきたかった安倍の意向が伺われる。

私も複数のマスコミ取材を受けたが、その中で述べたのは、戦争終結のための原爆使用説は、当時の敗戦必至の日本の状態を見ればウソであることは明らかであり、本当のことはトルーマン大統領が戦後政治を見据えた使用であったということだ。

しかし「核」の管理が現在でもできないことを考えれば、この原爆使用は明らかに人類や地球に対する「犯罪」であり、未来永劫批判されなければならない。その後「核」をもって世界支配を目論んだアメリカ政府の歴代の大統領も同罪に近い。

オバマが登場間もなくプラハで核廃絶の演説を行ったとき、歴代大統領と違い、核廃絶の具体的処置に着手するであろうと歓迎した。しかしIAEAという五大核保有国を軸にしたダブルスタンダードの核廃絶の障害になる制度を支持したし、核弾頭削減も全く行詰まり、それどころかイスラエルの核保有を黙認し、イン・パの核保有を認めて来た。 

私が中学生時代、被爆2年後には、あのT字型の相生橋の下の川の中にはまだ骨が散乱していた。広島の土の下には、特に爆心近くには無数の骨肉が埋まっている。米軍最高司令官が謝罪なしにそこを土足で、まして岩国基地で米兵を激励した後、オスプレイまで動員して下り立つことは死者に対する冒涜以外のなにものでもない。先日もある広島の友人と話していたら「トルーマンは悪いがオバマはその時はまだ生まれとらんのじゃけん、わしらに戦争責任を問うのと同じで納得できん」と言っていた。日本人の感覚には、自分の父や親せき.兄が犯したアジアの人々に対する戦争犯罪を、終わったことにしようとする風潮が多いが、こうした考えが安倍を生み出し、ヘイトスピ-チを生み出している。

ともあれオバマは、日米同盟の強化とアベノミクスの失敗を糊塗するために来日したと思って間違いないだろう。

今回のオバマ日程を見てみよう。先述したように、基地岩国から広島に入り慰霊碑に献花した。これも外来者の儀礼的のもので、マスコミや一部の評論家が言う哀悼、謝罪ではない。その後、原爆資料館を視察した。これは被爆者の多くが一番望んでいたことであり、それはあの残酷と悲惨を見ればどんな人でも、核の恐ろしさを認めるだろうと思ったからだ。しかし滞在したのはわずか10分、模型の地図を見る時間もないぐらいの短時間であった。被爆者との面会とやらも、屋外でハグし合う程度でまったく素通り状態であった。

オバマの声明も具体的なものはなく、彼自身が認めているように「核のない世界の実現は私の生きているうちは難しい」とは、私のように反核運動を65年以上続けた老人が言うならまだしも、世界最強の大国で最初の原子爆弾を落とした国の、最高の権限を持つ人間の言葉とは思えない。これは「核廃棄は見込みありません」と正直に告白したとしか思えない。

謝罪については、アメリカの世論について云々があるが、先述したように原爆投下正当化は米国の犯罪を隠蔽させたものだ。最近では、原爆投下が間違っていたか否かの世論は六分四分ぐらいになっている。アメリカン大学のピーター・カズニックのように数十年前からトルーマンの犯罪と告発している歴史家もおり、映画監督のオリバー・ストーンや多くの著名人がその意見を支持している。オバマ自身がその気になれば、謝罪できることである。

核と言えば原発もしかりで、かつてアメリカのアイゼンハワー大統領が「核の平和利用」を唱えたが、それも原発をはじめとする膨大な軍事産業を輸出させるための「核拡散」であった。

原爆も原発も人類破滅の恐ろしい凶器であり、最初に使用した道義的責任というのなら、自ら率先し、具体的行動として「核」の完全廃棄を行うべきである。

日本の平和憲法のように!


2016年5月27日     

原子爆弾被爆者 米澤鐡志


よねざわ・てつし

1934年8月生。45年8月、広島にで爆心地から750メートルのところで被爆。原爆症で母と妹を失う。自身も頭髪が全部ぬけ、40度以上の高熱が2週間続くも、奇跡的に回復。戦後は原水禁運動に参加。立命館大学卒業後、病院事務職に就く。69-94年まで(財)高雄病院事務長。現在も各地で積極的に被爆証言、平和活動を行う。京都府宇治市在住。米澤さんのHPはここ