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Friday, July 08, 2016

琉球新報連載「正義への責任―世界から沖縄へ」のブックレット第二集のお知らせ Ryukyu Shimpo Series "Responsibility for Justice - From the World to Okinawa" Booklet No.2

2014年から『琉球新報』に月1-2回のペースで連載している「正義への責任―世界から沖縄へ」のブックレット第1集(昨年12月刊)に続き、このたび第2集が出ることになりました。
7月8日『琉球新報』社告より

『正義への責任―世界から沖縄へ②』

琉球新報社編  監修・翻訳 乗松聡子 発行 琉球新報社



今回は第13回から28回までと特別篇一篇を加えた、2015年4月から2016年4月までの掲載分を収録してあります。

執筆陣は、


  • ローレンス・レペタ Lawrence Repeta (明治大学法学部特任教授)
  • ジーン・ダウニーJean Downey(弁護士、著述家)
  • ジョン・フェッファーJohn Feffer (米シンクタンクディレクター)
  • ジャン・ユンカーマンJohn Junkerman (映画監督)
  • デイビッド・バインDavid Vine(アメリカン大学准教授)
  • クーハン・パークKoohan Paik(ジャーナリスト)
  • オリバー・ストーンOliver Stone(映画監督)&ピーター・カズニックPeter Kuznick(アメリカン大学教授)
  • ジョン・レットマンJon Letman(ジャーナリスト)
  • ロジャー・パルバースRoger Pulvers(作家)
  • チェ・ソンヒ 崔誠希(平和運動家)
  • シーラ・ジョンソンSheila Johnson(人類学者)
  • カイル・カジヒロKyle Kajihiro(活動家・研究者)
  • デイブ・ウェブDave Webb(リーズ・ベケット大学名誉教授)
  • ブルース・ギャグノンBruce Gagnon(平和運動家)
  • クォン・ヒョクテ権赫泰(韓国・聖公会大学教授)
  • 乗松聡子(のりまつさとこ)(『ジャパン・フォーカス』エディター)


の17人となります。それぞれの「沖縄への向き合い方」を示しています。ぜひお読みください。

この本は沖縄の書店に並び、アマゾン、ジュンク堂のネット書店などで購入できるようになる予定です。このページにまた具体的な案内を出します。

乗松が参加する7月30日の東京イベント(「7・30ニッポン診断―沖縄米軍基地という日本問題を考える」開場1時半、午後2時から5時まで、水道橋東口徒歩5分の「スペースたんぽぽ」で開催―前田朗、デイビッド・マクニール、乗松聡子の対談)でもこの本を紹介いたします。

★「正義への責任」は現在も『琉球新報』で連載中です。


@PeacePhilosophy 乗松聡子




琉球新報連載「正義への責任―世界から沖縄へ」のブックレット第二集のお知らせ Ryukyu Shimpo Series "Responsibility for Justice - From the World to Okinawa" Booklet No.2

2014年から『琉球新報』に月1-2回のペースで連載している「正義への責任―世界から沖縄へ」のブックレット第1集(昨年12月刊)に続き、このたび第2集が出ることになりました。

『正義への責任―世界から沖縄へ②』

琉球新報社編  監修・翻訳 乗松聡子 発行 琉球新報社



今回は第13回から28回までと特別篇一篇を加えた、2015年4月から2016年4月までの掲載分を収録してあります。

執筆陣は、


  • ローレンス・レペタ Lawrence Repeta (明治大学法学部特任教授)
  • ジーン・ダウニーJean Downey(弁護士、著述家)
  • ジョン・フェッファーJohn Feffer (米シンクタンクディレクター)
  • ジャン・ユンカーマンJohn Junkerman (映画監督)
  • デイビッド・バインDavid Vine(アメリカン大学准教授)
  • クーハン・パークKoohan Paik(ジャーナリスト)
  • オリバー・ストーンOliver Stone(映画監督)&ピーター・カズニックPeter Kuznick(アメリカン大学教授)
  • ジョン・レットマンJon Letman(ジャーナリスト)
  • ロジャー・パルバースRoger Pulvers(作家)
  • チェ・ソンヒ 崔誠希(平和運動家)
  • シーラ・ジョンソンSheila Johnson(人類学者)
  • カイル・カジヒロKyle Kajihiro(活動家・研究者)
  • デイブ・ウェブDave Webb(リーズ・ベケット大学名誉教授)
  • ブルース・ギャグノンBruce Gagnon(平和運動家)
  • クォン・ヒョクテ権赫泰(韓国・聖公会大学教授)
  • 乗松聡子(のりまつさとこ)(『ジャパン・フォーカス』エディター)


の17人となります。それぞれの「沖縄への向き合い方」を示しています。ぜひお読みください。

この本は沖縄の書店に並び、アマゾン、ジュンク堂のネット書店などで購入できるようになる予定です。このページにまた具体的な案内を出します。

乗松が参加する7月30日の東京イベント(「7・30ニッポン診断―沖縄米軍基地という日本問題を考える」開場1時半、午後2時から5時まで、水道橋東口徒歩5分の「スペースたんぽぽ」で開催―前田朗、デイビッド・マクニール、乗松聡子の対談)でもこの本を紹介いたします。

★「正義への責任」は現在も『琉球新報』で連載中です。


@PeacePhilosophy 乗松聡子




Thursday, July 07, 2016

おことわり

7月5日に、「週刊金曜日に投書したが不採用になった」という旨で投書内容をブログにアップしましたが、不採用を私に伝えてきた編集者が誤解していたことがわかり、近々の号で掲載される予定だということです。これに伴いブログ、フェースブック、ツイッター等からすべて削除しております。これは、私がブログで公表したから掲載するということでは決してなく、単純な誤解によるものです。お騒がせしてしまったことをお詫びいたします。なお、ご自身のブログやフェースブック、ツイッターなどでこの件について拡散したり意見したりしてくださった方々へ―引用や転載などされた場合は申しわけありませんが削除していただくようお願い申し上げます。大変ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。この件でお問い合わせ等あれば info@peacephilosophy.com にご連絡お願いいたします。 @PeacePhilosophy 乗松聡子

Wednesday, June 22, 2016

私にとっての中国 日本にとっての中国: 小林はるよ

長野県で無農薬農園をやっている小林はるよさんは、昨年11月にブログを通して連絡をくれました。お話をしていると、はっと気づかされることも多く、今回はるよさんのエッセイを掲載することにしました。中国、北朝鮮、韓国など隣国を敵視、蔑視するような論調ばかりが目立つ日本では、はるよさんのような普通の感覚を持っている人はかえって稀なのかもしれません。そういう思いもこめて紹介します。隣国の人々との関係をこのように歴史に照らし合わせながら、自分や自分の家族という身近な次元から考えていく姿勢に学びたいと思います。@PeacePhilosohy



私にとっての中国 日本にとっての中国


小林はるよ

 私の息子のパートナーは中国人で、ハルピン近郊の農村の出身です。今からもう10年以上もまえ、息子が国際学会で北京に行ったさいホテルで散髪をしてもらった、そのときの理容師が今のパートナーで、私たちはヤンリと呼んでいます。息子は鏡の向こうに見たヤンリに「一目惚れ」しました。

 私がヤンリから学んだことは、いろいろ、ありますが、いちばんの収穫は、簡単に言えば、人にとっては、「我がふるさとが、世界でいちばんいいところ」だということでしょう。日本人の多くは、食べ物も自然も日本が世界最高、そう考えているようです。そのこと自体は、自然なことですが、同時に他国の人、他民族の人にとっても、「我がふるさとが、世界でいちばんいいところ」だということを忘れてはいけません。そのふるさとが焼けつく砂漠であっても、氷に閉ざされる極北の地であっても、そこで育った人にとっては「我がふるさとが、世界でいちばんいいところ」です。

 私は、日本で「日中戦争」と呼ばれている歴史的経過は、日本の「中国侵略」に他ならない、と思っている人間です。その私でも、「日本ではこれだけ便利で、自由で、物資が豊富で、清潔なのだから、中国の田舎の人なら、日本の暮らしのほうがいいと思うのでは?」という思いが、心の底にはあったのです。そのことを、私はヤンリと、ヤンリのお母さん、お姉さんとふれあうなかで知りました。そして、心中、ひそかに恥じたのでした。彼女たちはヤンリのお産の手伝いなどもあって、何回か札幌の息子のアパートにかなり長く滞在しましたが、用さえすめば、一刻も早く中国に帰りたがっていました。ヤンリ自身、20歳になるやならずで、理容業を自営できていたのに、そうしたキャリアがまったく評価されない日本に来ました。失ったもののあまりの大きさを、日本に来て徐々に知ることになったわけで、日本が暮らしやすいなどとは、まったく、思っていませんでした。日本の暮らしの便利さ、自由さ、清潔さ、ひいては食べもののおいしさ、物の豊かさなどは、長年それに慣れて、しかも比較的恵まれた環境にあった私には享受できるものであっても、彼女たちにとっては、なんの意味もないものだったのです。

 私の父の家族は当時の植民地台湾にいました。けれど台湾の日本人社会は、植民地での西欧人社会のように、現地社会とは隔絶されていたので、日本国内にいるのと全く同じような感覚で暮らしていたようです。とはいえ、そこは、日本国内ほど狂信的ではない社会だったのでしょう。父が日本の侵略戦争に対して批判的だったとはまでは言えないものの、一歩引いていられたについては、台湾で成長したことが影響していたのかもしれません。父は子どもたち相手にフィリッピンでの従軍体験を率直に語ってくれる人でしたが、中国について、「戦争中はなあ、中国人をチャンコロなんて言ってバカにしていた。考えてみればひどい話だった」と言ったことがありました。父のその言葉が、中国人をバカにしていたなんて、とんでもないまちがいだったという意味だということは、子どもにもよくわかりました。「ヨーロッパでは、日本文化は月光文化と言われているんだよ」とも言いました。「太陽が中国文化、日本文化はその照り返しというわけさ」。ヨーロッパでは、日本文化は中国文化の一亜流と思われている、そのことを私はずっと後になって実感しました。スウェーデンの人に、漢字のことを何気なくJapanese characterと言ったら、その人はまさに間髪を入れずChinese characterと、言い返してきました。からかうような、ちょっと皮肉な表情で。そう、漢字は漢の字でした。

 大人になってから、日本のした侵略戦争についての本を読むようになり、「中国、韓国、沖縄にはけっして行かない、行ってはならない」と思うに至ったのですが、そのことは一面、それらの地域についてもっと具体的に知ることを妨げた気もします。そっと黙礼して目をそらしてしまっていたことになります。ところが、今から20年以上もまえから、つまり日本の全体としての右旋回がはっきりしてきたころから、敵国からの攻撃に備えるとか仮想敵国とかいう言葉が、防衛白書のような政府文書や新聞紙上で、目につくようになりました。「ん?敵国ってどこのこと?」と思いました。どうやら日本は、敵国からの攻撃がありうるから軍備をもっと増強しなければとか、日米安保の強化とか、言っているらしい。敵国、敵国っていっても、SFじゃあるまいし、具体的な国があるはずと考えたあげく、日本が想定している敵国は、中国のことでしか、ありえない、と結論しました。

 「北朝鮮の脅威」はメクラマシで、仮想敵国は中国。中国が好きでも嫌いでもなかった、関心があるわけでもなかった私ですが、そう結論したら、日本周辺の国際情勢がとてもよくわかってきた気がしました。同時に、ひどく、憤りを感じました。なにを言うか。中国を侵略し、蹂躙したのは日本じゃないか。中国が一度だって日本に入ってきたことがあるか。日本を侵略したことがあるか。中国は、国家としての賠償権を放棄し、日本軍捕虜を寛大に扱い、中国残留孤児を貧しいなかで育ててくれたじゃないか。その中国を仮想敵国だなんて、なんて理不尽な話だろう・・・

 いったい、どうしてだろう、どうして日本はこんな理不尽なことを言って平気なのだろう。答えはどこにも書いてはありませんでした。自分の知っているあらゆる事実を考え合わせて、この中国敵国視の根っこはずいぶん深いところにあるのではと思うようになりました。明治になってからすぐ、西郷隆盛の「征韓論」がありました。その300年もまえには、豊臣秀吉の「朝鮮征伐」がありました。どちらも、ほんとうに狙っていたのは、中国、つまり清であり明でした。秀吉が明を狙ってまず朝鮮に攻め入ることをもくろんだとき、当時来ていた宣教師は秀吉の無智、無謀に驚いたらしい。明が大国であることを知っていたからです。

 では秀吉の「朝鮮征伐」が日本の中国への野心の皮切りかというと、それも、唐突に出てきたとは思えません。もっと根が深いように思えて、894年の「遣唐使の廃止」に思い当たりました。「国際関係」はつねに複雑で解釈は多々ありますが、私は「遣唐使の廃止」は、国家としての体制を整えた日本の、「独立宣言」だったのではないかと思っています。東アジアの歴史においては、中国大陸に成立する国家とその周囲の東アジア諸国のあいだには「冊封関係」という相互契約的な外交関係がありました。日本は「遣唐使の廃止」で、中国大陸に成立する国家との「冊封関係」圏に属さないという選択をしたことになります。

 日本は、「冊封関係」圏に属さないという選択を、江戸時代まで維持することができました。その間に元寇があり、秀吉の「朝鮮征伐」があり、薩摩藩を通じての琉球王国支配もありました。「通信使」や使節の派遣、活発な民間の交易も私的な往来もありました。けれど、「冊封関係」から独立して存在できたについては、そうとうな航海技術がなければ渡れない海に囲まれた大きな島という地理的条件や、恵まれた気候条件があったせいでしょう。

東アジア唯一の国家間の外交関係としての「冊封関係」から独立できたことは、結果として、周辺の他民族との、持続的な軋轢や交渉や交流、いわゆる異文化体験を経験しないことにつながりました。日本人には国粋意識が非常に強いいっぽうで、民族意識の形成が非常に弱いのは、歴史的な異文化体験の欠如からではないでしょうか。「大学での授業を英語で」という政府方針への反発がきわめて少ないことにも、日本人の民族意識の弱さを痛感します。私は、日本人の国粋主義には、世界的にみても独特なものがあるという意見です。「自分の国がいちばんいい。自分の国が世界の中心」は自然な感情です。けれど、それが幼児的な自己中心的な感情であることは、大人の常識です。それは他国人、他民族に対して公然と振りかざしたり、押しつけたり、認めさせようとしていいものではありません。けれど日本はある意味では非常に「無邪気」に、なんの痛痒も感じずに、他民族に自民族の文化を強要してきました。他民族に対する「無邪気」は、「無慈悲」でもありました。その「無邪気」が、独特です。

 日本は朝鮮半島とは古代から非常に密接な関係がありました。けれどその朝鮮半島と冊封関係にあるのは、大国の中国、朝鮮半島は中国と国境を接し、朝鮮半島の目はつねに中国を向いています。朝鮮半島は、中国との関係がよければ日本と断絶しても別に困ることはないのです。中国はずっと、日本にとって、唯一の、ほんとうの意味の外国であり、できるものなら日本がとって代わりたい、大国でした。そんな孤立のなかで日本は、中国への対抗意識をいわば、純粋培養していったのではないでしょうか。中国への対抗意識と同時に朝鮮半島への侮蔑感、優越感をも。それは、もともとは支配階層の意識だったのですが、明治以後、急速に庶民階層にも浸透していきました。教育と言論の支配によって。

 ところが中国からみれば、日本はたくさんある周辺国の、そのまた辺境にある国です。日本に対してそれほどの関心はなかったでしょう。日本と中国の、お互いへの意識の落差は今も続いていて、中国のほうでは、日本がなぜこれほどまでに中国に敵対的なのか、よくわからないらしいのです。歴史的には日本のせいでひどい迷惑、被害を蒙ったのは中国なのに、加害国の日本が今また、中国が脅威だ、敵国だと騒いでいる。なぜなのか、わかるわけがない。中国でなくても、世界のどの国にも不可解、理不尽と思えているでしょう。日本はいつか、中国への侵略行為を恥じること、朝鮮半島の併合、同化の強要、強制連行(従軍慰安婦を含めた)、琉球王国の併合と植民地化を恥じることがあるでしょうか。

 とても難しいことです。一つには、先方の被害があまりにも一方的で、あまりにも苛酷だったからです。それは、個人間の関係で言えば、殺人に該当する、つぐないようのない、加害です。深層心理的にですが、日本は、あまりにひどい被害を与えてしまったから、そのことが認められない、認めたくないのです。認めて、あちらの被害にみあうつぐないを求められたら、たまらない。今度はこちらが身ぐるみ剥がれることになる・・・自分がやったことを相手もすると思ってしまう、その恐怖があると思います。もう一つには、日本では、国同士の関係においても個人の関係においても、対等な関係の構築が難しいからです。日本にとって、中国は、上と認めるのは絶対に嫌だが、下におくわけにもいかない、おさまりのわるい国なのです。いずれにしても、日本の中国に対する敵愾心には、合理性や倫理性、普遍性がなにもない。ストーカーの怨念レベルです。

 テレフォン人生相談のパーソナリティーの1人、加藤諦三さんは、番組の中で「あなたのいちばん認めたくないことを認めることができれば、あなたの問題は解決します」と、必ず言っています。日本の「いちばん認めたくないこと」は、中国敵視、朝鮮蔑視、そして沖縄無視が、「いわれなきもの」、つまり、その原因(非)が相手方にあるのではなく、ひとえに自分にあることを認めることではないかと思っています。
農作業中の小林さん


こばやし・はるよ

岡山県出身。無農薬栽培「丘の上農園」経営。「言葉が遅い」問題の相談・指導に携わってきた。長野県在住。

おいしそうないちご

Thursday, June 16, 2016

仲宗根勇: 沖縄差別の源流と「和解」をめぐる疑惑・今後の闘い(映画『圧殺の海 第2章 辺野古』パンフレットより)

映画『辺野古』パンフレット
『Marines Go Home 2008-辺野古・梅香里・矢臼別』(2008)、『アメリカばんざい』(2008)、『圧殺の海』(2013)、など、米国軍事主義の闇を暴き闘う市民たちの姿を撮り続けてきている「森の映画社」の新作、『圧殺の海 第2章 辺野古』(藤本幸久・影山あさ子共同監督)は、2014年11月翁長知事が誕生してから2016年3月、国と県の間の「和解」が成立するまで、「辺野古では何が起きていたのか」、海と陸における闘いの日々をドキュメントした作品だ。沖縄ではすでに5月末から6月にかけて上映、6月11日から大阪、6月25日から東京など全国で続々と上映される(詳しくは「森の映画社」のサイトへ)。

この映画のパンフレット『圧殺の海 第2章「辺野古」パンフレット』24-27頁、元裁判官の仲宗根勇氏の文を許可を得て転載する。この映画でも触れられている国と県の「和解」の第9項が判決確定後に県の手足を縛り不利にはたらく可能性とその対策について解説している部分は青字で示してある(注:文中参考資料として掲載した「和解勧告文」「和解条項」および末尾の仲宗根氏プロフィール、写真はブログ運営人による挿入。文中参考記事にもリンクを張っている)。

仲宗根氏は最後から2番目の段落で、もし県が新たな訴訟で敗訴した場合、「県が自ら招いてしまった第9条の拘束を自動的に受けることになるので、その拘束から逃れるためには、新たな訴訟の判決直前に翁長知事が埋め立て承認の撤回をするのが得策」と述べている。これは県が耳を傾けるべき重要な提言ではないか。@PeacePhilosophy



沖縄差別の集中的表現=辺野古新基地建設の暴力的強行
          
〜沖縄差別の源流と「和解」をめぐる疑惑・今後の闘い〜  

            
仲宗根勇
(うるま市島ぐるみ会議・うるま市具志川九条の会共同代表)


 「沖縄差別」という言葉が今日ほど日常的に広く頻繁に語られた時代は、沖縄の近現代史においてかってなかったことである。近くは、1960年代から70年代初頭にかけての復帰運動がピークに達した頃の闘争の現場において、本土政府の沖縄に対する理不尽な仕打ちに対し、沖縄の民衆が現在のように「沖縄差別を許すな!」などというシュプレヒコールを唱えることはなかった。その理由は、当時の主流的な復帰運動が抱えた思想原理に内包されていたということができる。つまり、「祖国復帰」(母なる「祖国」への復帰)という言葉に象徴される当時の主流的な復帰思想は、日本国が単一民族国家であることを無意識のうちに前提にして、国民国家の構成員としての沖縄人イコール=日本国民という真正な等式が何の疑問もなく立論され、言わばその等式を前提にしての復帰運動であった。それゆえに、沖縄を含む日本国家の同一民族論に立つこの等式からは「差別」という観念は論理必然的に排除・隠蔽されねばならなかったわけである。しかし、この運動原理の前提とは異なり、沖縄人を異族視する、本土における一般的な民衆意識が広範に存在したことは、当時から現在に至るまで何ら変わってはいない。そうであるがゆえに、国土面積の0.6パーセントに過ぎない沖縄に全国の約74パーセントの在日米軍専用施設を押しつけて恥じない日本政府とそれを支持する多数の日本国民という不条理な構図が続いているわけである。

 しかし、「復帰」後40年以上の歳月が流れた現在、復帰に状況変革の夢をかけた沖縄の民衆の政治意識は大きく変容している。「復帰」前後においては、意識的に論じられることがなかったいくつもの論点・視点が公然と浮上してきた。例えば、沖縄人がいわゆる「先住民族」であるか否かが新聞紙上などで論争され、安倍内閣によって平和憲法が弊履のように捨てられている日本から離脱し理想の国家を構想する「琉球独立論」が学問的・運動論的に確かな形で民衆の前に立ち現れている。「日本会議」などの右翼勢力をバックにした安倍内閣が日本国憲法をクーデター的に解釈改憲して、自衛隊がアメリカの傭兵となって世界中で戦争をすることができる戦争法を強行採決し、沖縄差別の発現である辺野古新基地建設を暴力的に強行する日本国家に対する底なしの絶望がその背景にある。

 そもそも、沖縄に対する日本国からの差別は長い歴史を持っている。
日本本土の近世幕藩体制の支配の正当性は天皇の権威をバックにして構築されたものであった。豊臣秀吉は関白の権力を、徳川家康は征夷大将軍の権力を天皇の官吏として付与されて、その支配体制の秩序形成に成功したのである。

 これに反し、15世紀初頭、尚巴志によって統一された琉球国は天皇の秩序体系とは無縁の独立した国家であった。その支配の正当性は、中国皇帝からの冊封と女性が執りおこなう国家祭祀に基づいていたとされている。

 その万国津梁の平和国家は1609年の島津藩の侵攻によってあえなく首里城を明け渡し、島津の属国のような地位にありながらも、独立国として存立し続けていたことは、1854年のペリーとの琉米条約、1855年のフランスとの琉仏条約、1859年オランダとの琉蘭条約を琉球国が国家主体として締結した事実がその何よりの証明である。

 1871年(明治4年)明治維新政府によって、本土で廃藩置県が実行された際には、琉球国は鹿児島県の管轄下に置かれ、翌年に琉球藩とされた。そして、明治維新政府は琉球藩処分法を制定し、処分官に任命された松田道之が、1879年(明治12年)陸軍歩兵400余名、警官・随行官吏160余名を引き連れて首里城に乗り込み、「首里城明け渡し」「藩王尚泰の上京」「土地、人民などの引き渡し」を命じた「令達を朗読しこれを交付」(真境名安興「沖縄一千年史」)した、いわゆる「琉球処分」によって、琉球藩は廃止され沖縄県として廃藩置県がなされた。その後、沖縄人は、明治憲法下の天皇制国家の下に組み込まれ、台湾人、朝鮮人などの外地人とは異なる内地人たる「日本臣民」の範疇に入った。しかし、沖縄県が置かれた後においても、地方制度や土地制度、租税制度、裁判制度など多くの分野で、沖縄において本土とは異なる制度が施行された。沖縄県庁では長崎県や鹿児島県出身者が重要なポストを占め、量的にも少ない沖縄県出身者が重要なポストに就くことは極めてまれだった。東京帝国大学を出て県の高等官となった謝花昇が、県政刷新を目指して、「琉球王」の異名を持った薩摩閥の奈良原茂知事の専制との戦いに敗れ狂死した軌跡は今なお伝説的に語られている。

 本土では1873年(明治6年)に地租改正が実施され、土地所有者が確定されて地券が発行されたが、沖縄では1902年(明治35年)になってようやく土地整理事業(地租改正に当たる)が終了し、首里王府時代の封建的な旧慣土地・税制を改革し、近代的な土地所有権が確立され、それ以後、税法や民法などが施行された。王府時代の行政単位である間切(まじり)には番所(ばんじゅ)、村には村屋(むらや)のような地方制度が沖縄県設置後も温存され、沖縄に本土同様の地方制度が導入されるのはようやく1921年(大正10年)のことである。日本本土では1890年(明治23年)第1回の衆議院議員選挙が実施されたが、沖縄県民の意思を国政に反映させる選挙法の実施は本島で1912年(大正元年)、宮古・八重山は1919年(大正8年)のことであった。

 明治、大正期における本土と異なる制度の施行とその遅れが因となり果となって、1903年(明治36年)の「学術人類館」事件で露呈したような沖縄人を異族視する本土民衆の潜在意識が沖縄差別として拡大再生産された。その結果、皇民化教育=日本人教育が徹底されたこともあって、沖縄戦における日本軍によるスパイ容疑での住民虐殺、壕追い出し、食糧強奪、そして集団自決、法的根拠のない14歳以上の学徒の戦場への駆り出しなど、軍と防衛召集された県民の軍民一体化の状況下において、本土防衛のための「捨石」作戦により、「鉄の暴風」が吹きすさぶなか、四人に一人の県民十数万人の命が奪われ、「平和の礎」の死者台帳にその名を連ねる地獄図を呈する惨劇を招いたのである。

 1945年の敗戦後、沖縄は「戦後」民主主義下の本土から分離され、米軍の独裁的な裸の占領支配を受け続け、サンフランシスコ講和条約で日本は独立し、本土の占領は1952年に終わる。しかし、沖縄は講和条約第3条の軛(くびき)を背負い、1972年の核持込み密約・基地強化が実体の、名のみの「復帰」から現在に至るまで過剰負担の米軍軍事基地の重圧に呻吟し続けている。

 アメリカの「アジア回帰」戦略に呼応して集団的自衛権を現実化する戦争法を強行採決した安倍内閣が、諸々の選挙で示された沖縄の圧倒的な民意を無視し、アメとムチを振りかざして辺野古新基地建設を強行し、配備隠しの果てのオスプレイの配備強行、南西諸島への自衛隊配備を推し進めている現実それ自体、沖縄差別そのものの集中的表現である。

同時にそれは、憲法違反状態の小選挙区制と野党分裂が生んだ虚構の多数与党にあぐらをかき、日本国憲法を無視し立憲主義を破壊しつつ明文改憲をもたくらむ安倍内閣による、憲法クーデターともいうべき憲法の危機的状況を意味する。辺野古・高江の闘いは、沖縄の環境と未来を守るとともに、右翼・安倍晋三内閣による世界に冠たる日本国憲法の改悪策動を許さない、平和と人権を守る歴史的な闘いの最前線に位置する。

 その現場の闘いの場外戦ともいうべき法廷における国・県の闘いもほぼ同時的に進行してきた。

 2013年12月27日、仲井真知事は沖縄防衛局が同年3月22日にした辺野古沿岸部埋め立て申請を承認した。知事再選時の県内移設反対の公約を破り、国の環境影響評価書の環境保全措置では自然環境の保全を図ることは不可能との知事意見も出しながら、申請を「行政手続上適法」として承認したのであった。承認直前に上京しての不自然な面会謝絶の病院入院後の官邸との協議で、3000億円の予算や5年以内の普天間停止の政策約束を内閣総理大臣から取り付けたとして、「いい正月ができる」などと浮かれた発言をしたことで県民の激しい反発を買った仲井真知事は、2014年11月26日の知事選挙で10万票の大差でかっての盟友翁長雄志那覇市長をかつぐ「オール沖縄」に惨敗した。当選した翁長知事は公約を実現すべく、2015年1月26日埋め立て承認手続きを検証する第三者委員会を設置した。委員会は同年7月16日埋め立て承認に法的瑕疵ありとの報告書を提出し、それに基づき知事は同年10月13日埋め立て承認を取り消した。沖縄防衛局は、行政不服審査法を濫用して県知事の承認取り消しを違法としてその無効を求める審査請求と執行停止を国土交通大臣に申し立てた。同年10月27日国土交通大臣は承認取り消し処分の効力を停止する決定をした。これに対し、沖縄県は同年12月25日効力停止決定の取り消しを求める抗告訴訟を那覇地裁に提訴した。また同じ効力停止決定に対し、国地方係争処理委員会への審査申立て(同年11月2日)が却下(同年12月24日)されたのに対し、2016年2月1日、執行停止決定の取り消しを求めて福岡高裁那覇支部に提訴した。こうして、二つの訴訟を県が提訴せざるをえなかったのは、農水相によって県知事の沖縄防衛局に対する作業停止指示の効力が2015年3月30日に停止された過去から学ばず、沖縄県が再び同じ轍を踏み、取り消しの効力停止決定を阻止する法的手段(私が県の基地対策課と面会し提言書を提出した、国土交通大臣による執行停止決定前にすべき行政事件訴訟法37条の4〜5、3条7項の差止めの訴え提起・仮の差止め申立て)があったにもかかわらず、取り消しの効力停止決定をなすがまま許してしまった結果に他ならない。一方、国は福岡高裁那覇支部に代執行を求める代執行訴訟を同年11月17日に提起していた。

 こうして三つの訴訟が係属している中で、2016年1月29日代執行訴訟の第3回口頭弁論後に福岡高裁那覇支部からA案、B案の二つの和解案が同時に示され、和解勧告がなされた。そして3月4日電撃的に和解が成立した。和解において高裁に係属した国・県の訴訟及び沖縄防衛局の審査請求・執行停止申立てを取り下げることに双方同意し訴訟・審査請求・執行停止申立ての係属が消滅した。その結果、国土交通大臣がした承認取り消し処分の効力停止決定は失効し、翁長雄志知事がした承認取り消しの行政行為の効力が復活した。そして「沖縄防衛局長は、埋め立て工事を直ちに中止する」(和解条項第2項)ことになったのである。


1月29日の和解勧告文(ブログ運営者が挿入)

3月4日成立の和解条項(ブログ運営者が挿入)


 二つの和解案の内容が報道された直後から、私は、和解勧告の時期・方法についての異例の訴訟指揮の仕方に加え、和解案A案にある条項(「原告(国)は、新飛行場をその供用開始後30年以内に返還または軍民共用空港とすることを求める交渉を適切な時期に米国と開始する。」)を疑問視した。この条項では、交渉開始時期が不明確であるのみならず、米国との交渉の成否は第三者である米国の意思いかんで決まる不確定なものであるから、国が「自由に処分しうる権利または法律関係」が和解の内容とはなっていない。

 「当事者が自由に処分しうる権利または法律関係」について「当事者双方間に互譲(ゆずり合い)がある」ことが訴訟上の和解の成立要件である。従ってこの条項は和解成立の要件を欠き無効なものとなる。通常の能力を持つ裁判官がこのような和解条項を提案するはずはなく、これは、裁判事務に不案内の法務官僚が作成したものだろうと、私は、直感した。2016年3月24日付けの中日新聞や沖縄タイムスに共同通信の配信記事が掲載された(「菅氏主導 極秘の調整ー辺野古和解の舞台裏」(中日新聞)、「国、移設へ透ける打算ー辺野古訴訟和解の裏側」(沖縄タイムス)。その記事内容は、案の定、私の推測どおりであった。記事によると2月2日に首相官邸の執務室で首相が国の訴訟を所管する法務省の定塚誠訟務局長らと協議、2月12日には官房長官、外務、防衛大臣と定塚誠訟務局長が協議の結果、B案(暫定的な解決案)の受け入れに傾く。記事は、「関係者は『定塚氏は高裁支部の多見谷寿郎裁判長と連絡をとっていたとみられる』と証言する。」とも書く。三権分立、司法権の独立に重大な疑念を抱かせる驚くべき内容である。「多見谷寿郎裁判長と定塚局長は、成田空港に隣接する農地の明け渡しを求めた『成田訴訟』を千葉地裁、東京高裁の裁判官として手がけた過去がある。多見谷氏が福岡高裁那覇支部に異動になったのは昨年10月30日のことである。」(2016年3月24日付沖縄タイムス 社説)「送り込み人事」が疑われ得る多見谷裁判長と貞塚局長のこの間柄からすると、関係者の「証言」は、法務省を含む官邸側が裁判長と裏で通底したのではないかとの疑いを抱かせる。

 代執行訴訟和解勧告文は「仮に本件訴訟で国が勝ったとしても、さらに今後、埋立承認の撤回がされたり、設計変更に伴う変更承認が必要となったりすることが予想され、、、知事の広範な裁量が認められて(国が)敗訴するリスクが高い。」と指摘する(その指摘の理由は後述)。そしてB案の最後の条項は「被告(県)と原告(国)は、違法確認訴訟判決後は、直ちに判決の結果に従い、それに沿った手続を実施することを相互に確約する。」とする単純明瞭な確認条項である。

 ところが、和解条項第9項は「原告および利害関係人(沖縄防衛局長)と被告は、是正の指示の取消訴訟判決の確定後は、直ちに、同判決に従い、同主文およびそれを導く理由の趣旨に沿った手続きを実施するとともに、その後も同趣旨に従って互いに協力して誠実に対応することを相互に確約する。」と修正された。この修正は官邸と法務省が舞台裏で綿密な法廷戦術をねった協議の結果と思われるが、「これを根拠に菅氏は再訴訟で勝てば、、、辺野古移設を推進できるとのシナリオを描く。」と記事は書く。

 B案と和解条項第9項の違いは明白である。B案が単に「判決の結果に従う」というのに対し、9項では「主文」、「主文を導く理由の趣旨」(これは実務上「判決理由」と呼ばれる)、「その後も同趣旨に従って」と三重に重ねた「確約」がされている。

 主文とは判決の結論の部分のことで、判決主文ともいい、訴えの却下、請求認容または請求棄却を明示し、既判力、執行力が働く範囲は民事訴訟法114条第1項(「確定判決は、主文に包含するものに限り、既判力を有する。」)により主文が基準になるので、法定事項をわざわざ和解条項に記載する必要はない。B案に「主文に沿った」云々の記載がないのは当然である。したがって、第9項に本来、記載不要の「主文」の文字を冒頭にあえて記載したことは不自然であり、その真の記載動機は、核心的でより重要である「およびそれを導く理由の趣旨」以下の文章から相手当事者の注意力をそらせ隠そうとした、目くらましの策略であったと考えるほかない。

 判決理由とは、判決の中で、主文の判断を導く前提事実や争点、法の適用を示して判断の過程を明らかにする部分で、判決理由そのものは既判力をもたない(被告の相殺の主張についての判断にだけ唯一例外的に既判力が生じる 民訴法114条第2項)。

 既判力というのは、裁判が確定した場合、その裁判で判断された事項は当事者も裁判所も拘束され、再び訴訟上問題になっても先の判断と矛盾する主張や裁判は許されなくなる効力のことである。従って、判決理由については既判力がないので、当然に、先の裁判の判断と矛盾する主張は許されることになる。和解勧告文で埋立承認の撤回や設計変更に伴う変更承認に触れている理由は、国が勝訴しても、その判決理由に既判力がないこと、つまり和解条項第9項のような3重の合意が前提になっていないからこそ、知事の権限行使などに対する国のリスクが残ることを指摘しているわけである。しかし、和解条項第9項の合意により、当事者双方が主文と同様に判決理由にも既判力を認めたことになると解されれば、例えば、仮に「埋立は国防・外交関係に関わるので、知事には公有水面埋立法上の判断権がない」とする判決理由により県が敗訴した場合、県は、合意に基づく判決理由の既判力により、県に不利に判断された判決理由に拘束され、それと矛盾する設計変更承認などの知事の権限行使の主張が許されなくなるので、後日の県の権利行使に対するリスクを国は負わないことになる。

 2016年3月10日付けの毎日新聞は、「政府が和解に応じたのは、(第9項の)『その後も』に注目し、『新たな訴訟では負けない』(官邸筋)との見通しの下、判決が確定すれば県の協力が得られると考えたからだった」と報じた。また、3月12日の日本経済新聞も「和解案は『新たの訴訟の結果が出たら双方が従う』というのが合意の前提だ。」として「(移設完了時期が遅れる)和解を選んだ背景には普天間移設の実現に向けた安倍晋三首相の「急がば回れ」の判断と、それを認めざるを得ないオバマ米政権の姿があった。」と報じた。

 官邸と法務省が練り上げ、和解条項第9項に込めた意図はまさに報道の通りであろう。これと異なる沖縄県の代理人らの第9項解釈は、和解の結果の、県側の「勝利」性を強調するとともに、自己の訴訟代理行為の無過失・無謬性を弁証する独自の希望的解釈に過ぎない。3月1日に谷内正太郎・国家安全保障局長が訪米しホワイトハウスでライス大統領補佐官(国家安全保障担当)と会談し、和解について米国の理解を得たことも伝えられた。また、和解成立前、安慶田副知事が上京し、官邸と和解成立に向けた非公式協議をしたと思われる報道もあった。官邸側の和解に至るまでの過程が周到に準備されたのに対し、県側は、弁論終結後は裁判所と県の代理人との話し合いはなく、彼らにとって、国の和解受け入れは「突然の話だった」(竹下代理人 3月5日付琉球新報)のでドタバタと裁判所の和解期日呼び出しに応じて出頭し、熟慮の時間もなく和解合意に至ったものと思われる。

 第9項の文言と新基地建設は止めると言ったこととの整合性に疑問を呈した記者の質問に対し、県の竹下代理人は、和解条項第9項の射程範囲は埋め立て承認の取り消しだけに限られ、判決後の知事の権限行使などはできると答え、「少なくともこの和解に関しては(県に)デメリットがあるとは考えていない。」と述べている(2016年3月5日付琉球新報)が、「(和解せずに)沖縄が勝てる闘いを最後まで闘い抜いていれば、より大きな実を手にしていた可能性はないだろうか。『和解』は果たして沖縄に利する選択だったのか。和解に至るまでの過程とともに多角的な検証が必要である。」と述べる平安名純代・沖縄タイムス・米国特約記者の提言(2016年3月23日付沖縄タイムス「想い風」和解成立 利益は誰に)にこそ真相が潜むように思われる。
 
 翁長知事は新たな訴訟の判決確定後の対応について、埋め立て承認の撤回も視野に入れると4月5日の毎日新聞とのインタビューで明らかにした。(4月6日付毎日新聞)。
しかし、県の敗訴が確定した後は、県が自ら招いてしまった第9項の拘束を自動的に受けることになるので、その拘束から逃れるためには、新たな訴訟の判決確定前、かつ可能な限り長期間の裁判続行の後の弁論終結前後に承認の撤回をする方が得策であると考える。 

 公益上の必要があるときはいつでも自由に撤回はできるが、是正の指示の取消訴訟判決確定まで協議を続けることになっているから、裁判の期間が長いとそれだけ工事の中止期間も長く続く。すると承認撤回が争われる後日の裁判までの既成の工事量が少量に止まりその経済的損失もさほど増えないので、撤回の要件である「公益上その効力を存続せしめえない新たな事由」と工事の既契約関係者の受ける契約損害・経済的損失との比較考量の際に県に有利な事情となり、また、撤回によって生ずる不利益に対する補償をする場合に補償の額を最小限に止めることができる。和解成立当日やその後の訪米時のオバマ大統領との会談で安倍首相が「辺野古移設が唯一の選択肢は不変」と発言したことは、国が「円満解決に向けた協議を行う。」(和解条項第8項)気などさらさらないことを示している。

 結局、法廷闘争の帰結とは関係なく、基地包囲の闘いの現場に結集する県民の無抵抗・不退転の民衆運動の持続発展こそが辺野古・高江の闘いの帰趨を決することになるだろう。(2016年4月20日脱稿)


なかそね・いさむ

1941年うるま市生まれ。1965年東大法学部卒業後、琉球政府裁判所入り。2010年東京簡易裁判所で退官。現在、うるま市具志川九条の会・うるま市島ぐるみ会議各共同代表。近著に『聞け!オキナワの声 闘争現場に立つ元裁判官が辺野古新基地と憲法クーデターを斬る』(未來社、2015年)、『沖縄差別と闘う 悠久の自立を求めて』(未來社、2014年)。